●佐藤継信・忠信兄弟ともに義経に忠死す | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

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熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

善光寺境内にて佐藤継信・忠信兄弟の供養塔に偶然出会ったときは、ちょっとした感動だった。
義経の家臣としか記憶になかったので、「なぜ、義経の家来の供養塔が信州に、善光寺に?」
不思議だった。
でも、これでふたりのことを「信州往来もののふ列伝」に書けると思うと嬉しかった。
4/2付「松本平タウン情報」紙掲載予定の「巻85 佐藤兄弟伝」、まとめました。
ぜひまたご一読のほどを。


佐藤継信・忠信(さとうつぐのぶ 1158?~1185 ただのぶ1161?~1186) 
源平時代の武将。源義経の家臣。

当初は奥州藤原秀衡の家臣だったが頼朝の挙兵に馳せ参じようとした義経に、秀衡は兄弟を家臣として遣わした。

以後義経に忠節を尽くし、義経四天王の二人と称せられる。

しかし継信は1185年の屋島の合戦にて、忠信は頼朝方との戦いの中で都にて戦死。

享年26~28か。

               ◆

「佐藤つぐのぶ・ただのぶ? 聞いたことないなぁ。義経の家来といえば弁慶は知っているが」
と、歴史通の友人たち。
そこで京都の巨大な兄弟の供養塔の写真を見せ、さらに、「善光寺境内にも二人の供養塔があるぞ」
というと、
「そんなに有名か?」
と目を大きくした。

 
 

名高い義経の家来・弁慶と並び、佐藤兄弟もまた熱い忠義心を持った武将として後世にその名を残しているのである。


1184年の播磨・一の谷の合戦に続き、義経が勝利した讃岐・屋島の合戦は、那須与一が扇の的を射る話で有名な海戦である。

義経はまたも背後から平氏を奇襲、戦いは激烈をきわめた。


平家の猛将・平教経の「義経をただ一矢に射ん!」と放った強弓は、あわや義経に命中と思いきや、咄嗟に義経の前に躍り出た佐藤嗣信を射抜いた。

継信は身を挺して義経を守ったのである。

 

いまわの際に継信は、「殿(義経)の栄光の姿を見ずして死ぬことが心残り」、さらに、
「佐藤三郎兵衛嗣信と云いし者、讃岐国屋島の磯にて主の御命に代わりて討たれりと末代まで申されん事、今生の面目なるべし(平家物語)」と。
継信が多くの人々の心をとらえる所以である。

▼継信墓所

 

八百年の歳月を経た屋島の古戦場を訪ねると、那須与一が弓を構えて立ったという岩や、継信が討ち死したという「射落畠(いおちばた)」の地などの史跡は現在の海岸線からかなり内陸の地になっていた。


だが江戸時代、高松藩主・松平氏が継信の忠死を称えて建立した碑(墓所)は、往時の古戦場全体を望める高台にあった。

  

弟・忠信は兄亡き後も義経に従い壇の浦合戦でも活躍、平家はついに滅びる。

しかし歴史は一転、不仲となった義経と頼朝の源氏どうしの対立・抗争へ変わっていく。


劣勢となった義経一行が京から大和・吉野の山中へ落ちのびていく途中、吉野の荒法師たちに襲撃された。

この時、義経の甲冑をまとい身代わりとなって敵を引き付け奮戦、義経の危機を救ったのが忠信であった。


忠信は義経を救い自らも逃げのびて京都に潜伏するが、その後隠れ家が発見され襲撃を受けついに割腹自決する。

後にこの忠信の孤軍奮闘ぶりは「東国にこれほどの者なかるらん(義経記)」と頼朝を感服させ、また歌舞伎「義経千本桜」に創作されたという。

 

「平家物語」「義経記」に描かれた兄弟の義経への一途な姿は、感銘を受けた多くの人々によってしだいに真実味を帯び、全国へ後世へと広がりゆかりの地や史跡がつくられたのだろう。


京都国立博物館敷地内に堂々と並びたつ高さ6㍍の継信・忠信供養塔という「馬町十三重石塔」を仰ぎ見ると、二人の生きざまを人々が長く語り継いできた心情を分かる気がした。

  

善光寺山門横に肩を寄せて並ぶ兄弟の供養塔は、境内の石塔の中でもっとも古いものという。

兄弟の母・梅唇尼(ばいしんに)は善光寺参詣の折、故郷・奥州の地で待てどもついに帰らなかった二人の子の供養塔をここに立て菩提を弔ったと伝えられる。

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佐藤継信忠信兄弟登場します!

 

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    居並ぶ三十二将星は以下のごとくにて候…          

   

●信濃毎日新聞の書評です●

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