赤穂浪士忠臣蔵は、「事実はこうだった」という話より講談の話が楽しい。
赤埴源蔵も、「徳利の酒」の話がジーンときちゃう。
「源蔵はあまり酒はやらなかった…」と聞いてもねぇ。
◆赤埴源蔵(あかばねげんぞう 1669~1703)
江戸時代の武士。赤穂四十七士の一人。正式には重賢。
講談などでは「赤垣(あかがき)源蔵」として登場する。
父の仕えた飯田藩・脇坂家が寛文12(1672)年、播州・龍野藩へ転封。
その後隣藩の赤穂藩・赤埴家の養嗣子となり、浅野家に仕える。
吉良邸討ち入りで本懐を遂げ切腹。享年35。
元禄15(1702)年12月14日深更、赤穂四十七士は江戸本所松阪町の吉良邸を急襲した。
払暁、仇の吉良上野介の首級を挙げ、みごと本懐を遂げた。
………このあまりにも有名な赤穂浪士・忠臣蔵の物語に魅了された私は、中高生の頃、四十七士の名を全て暗記したほどだった。
後になって、
「その一人赤埴源蔵は信州・飯田の出身!」
と知ったとき、何か妙に嬉しかったことを思いだす。
源蔵は四十七士の中でかなり知られた一人である。
「赤垣源蔵といえば、そりゃ講談『徳利の別れ』よ!」
といわれ、私が子供心でも胸をうたれ感動したのはこんな物語だった。
………「義姉上、源蔵はしばらく旅に出ますゆえ、今日は兄上と一献交わしたく参上致しました。御在宅でしょうか」
大酒飲みの源蔵を嫌う兄は居留守をつかう。
すると源蔵は兄の羽織を貸してほしいと頼み兄の部屋へ。
羽織を床の間にかかげ、その前に正座して頭をさげ源蔵は何やらつぶやいている。
そして持参した徳利酒を一人で飲みながら羽織に向かって何か話しかけてはまた頭をさげている。
「何をしている、源蔵は?」
しばらくすると、
「義姉上、おじゃましました。兄上によろしゅう」
と羽織を返し去っていった。
「やっと帰ったか、ところで何しに来たんだ、あいつは?」
と、いぶかったままの兄。
………翌朝、江戸市中は早朝から赤穂浪士の吉良討ち入り事件で上へ下への大騒ぎ。それを聞いた源蔵の兄。
「まさかっ、あいつ!」
と家を飛び出して大通りへ走る、走る。
すると四十七士が雪道を、整然と隊列を組み高輪泉岳寺へと歩を運んで行くではないか。
あぁ、その中に弟・源蔵の凜々しく晴れ晴れとした姿が。
「源蔵! 源蔵! 兄を許してくれぇ!」
飯田市大横町あたりは殿町ともいい、城下町の街並みの雰囲気をいまだ漂わる。
その街の一角に「赤埴源蔵誕生地」の立札があった。
飯田城址から北西へ1㌔ほどの所、ここに源蔵の父・塩山十左衛門の居宅があった。
源蔵4歳のとき、藩主脇坂家が転封で遠く播州・龍野藩へ。塩山家もそれに随従した。
その後源蔵はすぐ隣りの藩の浅野家家臣・馬廻200石赤埴家の養嗣子となった。
養父は赤埴一閑といった。
飯田での在住は幼い頃のわずか4年ほどである。
だが我らが英雄四十七士の一人・赤埴源蔵はここで誕生したのだ。
立て札の前に一人嬉しく佇みながら私は江戸の吉良邸や泉岳寺、播州赤穂に思いを馳せた。
主君・浅野内匠頭長矩が江戸城殿中にて吉良上野介に刃傷事件を起こした時、源蔵は江戸藩邸詰めであった。
主君の心労を身近で感じとっていたのだろうか。
「わし一人でも殿の仇を討つ!」
というほどの激派だったともいう。
討ち入り当日、源蔵は裏門隊に属し屋敷内への斬り込み役を担った。
事件後は細川邸に大石内蔵助はじめ17人とともにお預けとなり、翌年2月4日切腹斬首。
介錯人・中村角太夫、戒名・刃廣忠劍信士。
源蔵は四十七士の同志とともに高輪・泉岳寺で眠っている。
伝えられる源蔵の人間像は講談の「徳利の別れ」の物語とはかなり違う。
酒はあまり飲めなかったといい、兄はいなかった。
別れのあいさつに訪ねたのは妹婿の田村縫右衛門だったという。
いつもと違うきちんとした服装で行ったところ、かえって赤穂浪士のふがいなさの嫌味をいわれたとか。
縫右衛門が後になって悔いたのはいうまでもない。
源蔵の遺言は、
「弟・本間安兵衛に兄は本望にて死についたとお伝えくだされ」
源蔵が飯田の出身と知って後、播州・赤穂の街を訪ねた。
数十年前に来た時から比べ、街並みが見違えるほど整備され、城下町の雰囲気が充ち満ちていた。
さっそく赤穂城址へ。
大手隅櫓を眺めながら橋を渡り大手門をくぐって石垣に囲まれた枡形を行く。
すると大石内蔵助邸の屋敷門の前に出る。
内蔵助邸跡はそのまま大石神社となっている。
屋敷門をぐるりとめぐって大石神社へ。
神社正面の鳥居に至るまでのまっすぐな石畳の参道左右に、おお! 四十七士石像がズラリ並んで出迎えてくれるではないか!
かつて全ての義士の名を暗記した私である。
どの義士もみなまるで親戚・親友のごとく思え、生きていれば握手したいほどだった。
さらに感動するのは境内の義士木像奉安殿である。
当代一流の彫刻家が四十七士を一人一体ずつ、形にはまらずそれぞれ自在に彫った木像が安置されていた。
感動というより圧倒されたというべきか。
その中、我が赤埴源蔵は、赤堀信平氏作の雨合羽を羽織り、饅頭笠を左手に持つきびしい表情の立像であった。
「源蔵っ~…!」
と背後から呼ぶ兄の声が聞こえてきそうだった。