●我が友四十七士よ、みな元気でいてくれて(嬉泣) | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

赤穂城下を巡って、四十七士を身近に感じて。
ひとりひとりがなつかしく、ちょっとしんみり。
木像、石像の姿、そして屋敷址を訪ねると、またいっそう身近。
我が友たちを、ぜひご覧くだされ。

   
まずは桜舞う庭先で、切腹に向かう白装束の主君・浅野内匠頭と最後の別れを惜しむあの名場面の人・片岡源五右衛門
礒貝十郎左衛門とともに主君の遺言を受け、その日髻を切って復讐を誓った。
眉目秀麗の側用人小姓頭だったという。
屋敷址は家老・大石内蔵助屋敷門のすぐ隣、大石神社の境内。
 
石像は3人並ぶ中央で立っているのが源五右衛門。
 

石像の源五右衛門左隣で胸張って胡座しているのは原惣右衛門
内蔵助を支えた三長老のひとり。56歳。
事件を赤穂に知らせる二番早打ち駕籠に大石瀬左衛門とともに乗った。
屋敷址は城の北方の萬福寺の近くに。
木像は内蔵助の意見を聞き入る姿という。 
  
次に
片岡源五右衛門とともにあるじの遺言を受け、遺骸を泉岳寺に葬送し、髻を切って復讐を決意した礒貝十郎左衛門をみて頂きたい。
 
裃を着て端坐、左手に鼓。
主君を偲んでこれから一曲打とうとする姿という。
十郎左衛門は25歳。
若くして鼓の名手だったそうな。

老母を思う人一倍の親孝行の息子であった話が名高い。
本懐遂げて泉岳寺に向かう途中、病気だった母のいる家宅のそばを通りかかった時、内蔵助は「ちょっと行って来てはどうか」とすすめた。
しかし十郎左衛門は、歯を食いしばり毅然として、
「昨日死を決して別れを告げてまいりましたゆえ」
と、そのままみなと泉岳寺へむかった。

屋敷址は物頭側用人であったためか、内蔵助屋敷近くで、源五衛門と同じく現在の赤穂城跡公園内にある。
  
石像はみな雨にぬれてかわいそうだった。
右から3番目の右ひざをついているのが十郎左衛門
一番右は我が信州出身の赤埴源蔵。2番目が小野寺十内
十郎左衛門の左隣は木村岡右衛門
 
石像は武士の姿で討ち入り姿がほとんど。
それに比べ、奉安殿に安置される木像は、町人や私服姿が多くぐんと親しみを感じる。そこがまた実にいい! 
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