いや、支えるどころか幼い義仲を預かり、成人まで育て、その生涯を義仲に賭けた、義仲に差し出したというべきか。
写真は松本市街地の七本松の史跡。
今は元町中公民館となっているが、ここは兼遠の松本平での屋敷跡と伝えられる地。
岡田親義の館はここから北へ5、6㌔ほどのところ。
また次の写真は松本市今井の中原氏館と云われる地。
本拠の木曽と松本平を結ぶちょうど中間点。
「兼平形見石」の史跡や兼平神社がある。
現在の松本市街地の南一帯は中原氏の実質的な支配地だった可能性が強い。
松本平北の岡田親義、南の中原兼遠はまさに義仲を支える両輪となるはずだった。
おそらく年齢的にも分別盛りの四十代だったか。
よき軍師になるはずだった。
だが、親義は倶利伽羅峠で討死。
兼遠は、義仲挙兵してまもなく亡くなってしまう。
兼遠の無念さはいかばかりか!
◆
中原兼遠(なかはらかねとう ?~1181?)
源平時代の木曽に本拠を置いた武将。
木曽義仲の養父、乳母夫ともいう。
また義仲の忠実な家臣となる今井兼平・樋口兼光の父。
義仲の妻室・巴御前の父とも。
きわめて義仲と密接な関係で挙兵の最も強力な後ろ盾となった。
しかし治承4(1180)年の義仲挙兵後しばらくして没したといわれ、義仲と伴にの上洛の夢はならなかった。
「なんとか兼遠殿! この駒王丸(後の義仲)をお願いできないだろうか、なんとぞ!」
兼遠を見つめ必死の懇願するのは旧知の武蔵国の武将・斎藤実盛だった。
兼遠は困惑した。
しかし2歳の幼児の澄んだ瞳を見るとことわる言葉はなかった。
実盛は、
「このままではとても駒王丸様を悪源太義平の追及からかくまいきれない。かといって斬られると分かっていて差し出すことなど到底できない…」
と、困り果て兼遠を頼ってきたのだ。
「名将八幡太郎義家公の四世とな。信州でじっくり育ててみるか…」
おそらくそんな腹を決めて兼遠は駒王丸を預かったのだろうか。