●都にて義仲の傍らに岡田親義が控えていたならば… | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

岡田親義は平安末期、松本平北部一帯を支配していた武将で、その居城は伊深山城と伝えられる。
それにしても岡田親義のこと、知らなかった。
親義が火牛の計で有名な倶利伽羅峠の合戦で討死していたとは。

毎日通勤で、伊深山城のふもとや岡田神社前を通っているのに。

地元人がこれではやれやれである。
  
 
岡田親義(おかだちかよし ?~1183)
平安末期・源平時代の武将。
松本平北部の現在の岡田周辺を中心に支配していた。
治承4(1180)年、木曽義仲の重臣として一族をあげて挙兵。
数多くの合戦で活躍したが、寿永2(1183)年の倶利伽羅峠の合戦で戦死。享年45前後か。
令旨を受け、義仲に味方を決意
今からおよそ800年前の治承4(1180)年、親義に都からの使者が後白河天皇の皇子・以仁王(もちひとおう)の「平氏を討て」という令旨(皇子・親王の命令書)を持参してきた。
これをどう受けるか。
当の以仁王はすでに平氏に滅ぼされたという。
時代は
「平氏にあらずんば人にあらず」

と云われている平氏の絶頂期、親義は難しい判断を迫られた。
親義は源氏の由緒ある家柄であった。
親義の父は源氏隆盛の基を築いた名将・八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光である。
信州にて以仁王の令旨を受けたのは他に佐久の平賀氏と木曽義仲。
義仲は源氏の嫡流・源義朝の弟・義賢の子であった。
「全盛の平氏と戦って勝つことができるのか。木曽の義仲殿はどうするのであろうか」

おそらく伊深山城に一人立ち、親義は考え抜いたことだろう。

私も親義のつもりで山城へ登った。
思わぬ急な山道には閉口、何度か休んでやっと頂上へ。
松本平一望で私は気分爽快だったが…。
さて、親義は考えの末、決めた。
「義仲公を総大将と仰ぎ、令旨に応えん!」と。
義仲に命運をかけた。
親義は27歳の義仲より一回り上の45歳前後だったと思われる。

義仲は実に頼りになる重臣として、「義仲四天王」と呼ばれる今井兼平・根井行親らより一格上の大将格として迎えたことだろう。
親義は子の重義・久義はじめ岡田一族一党挙げて義仲に参じた。
寿永2(1183)年、義仲の軍団は信州をたち北陸道を京へ。
いよいよ平氏と干戈を交えることとなった。
「火牛の計」で名高い倶利伽羅峠(砺波山)の合戦は同年5月、義仲軍5万、平氏軍は倍の10万と「平家物語」は記す。
倶利伽羅峠の山並みはふもとから見るとなだらかだが、峠の頂に立つと尾根・谷の急峻さにおどろく。
特に数万の平氏の兵馬そして牛が墜落死したと伝えられる地獄谷は鬱蒼とした森に覆われ、今も人を寄せ付けないほどの深い谷である。
写真左は、峠の頂上の古戦場碑
平家の本陣が置かれた所という。
手前の石机を囲んで平氏軍は軍議を行なったという。
合戦は義仲軍の夜襲で火蓋を切った。
「火牛の計」は少ない軍勢を多く見せるための一策だったのだろう。
戦いは熾烈な白兵戦となった。
「源平盛衰記」は、岡田親義父子の戦いぶりを生々しく描く。
親義は自ら槍をとり最前線へ向かった。
 
そして敵の大将・平知度(清盛の子)と遭遇、両者一騎討ちとなった。そこへ双方の従者が駆けつける。
「知度ノ随兵二十余騎、親義ガ郎等三十余騎、互イニ戦イケリ。
太刀ノ打チ違ウ音、耳ヲ驚シ、火ノ出ルコト電光ニ似タリ」と。
壮絶な戦いの末、無念にも親義は討ち死
子の重義、父を助けんと駆け寄ったが間に合わず。
平知度も戦死。
岡田久義(親義の嫡子)は平為盛(清盛の甥)と組みうち、これを討つ。
 
源平入り乱れての大激戦の末、義仲軍の大勝利となった。

親義父子の勇猛果敢な戦いぶりはなんとすさまじかったことか。
親義の死はまさに合戦の勝利、そして義仲上洛成功の礎につながったのである。
本校歴史研究会部長のH君はいう。
岡田親義なんて武将を全く知らなかった。こういう人こそ地元の私たちが言い伝えていかねばならないですよね」
それにつけても義仲にとって、ご意見番・軍師的な役割だったろう親義の死は痛かった。
上洛した時、傍らに親義がいたならば。
あぁ、そのとき養父の中原兼遠も死していなかったのだ。
義仲不運!