![](https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fhistory.blogmura.com%2Fhis_nihon%2Fimg%2Fhis_nihon88_31.gif)
写真は松本市内の井川城址、井川居館址(松本市井川城)ともいう。
国宝・松本城のほぼ南1.5㌔ほどのところ。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20121219/23/yamazakibakufu/53/ae/j/o0800060012337714171.jpg?caw=800)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20121219/23/yamazakibakufu/2f/e7/j/o0800060012337714167.jpg?caw=800)
南北朝時代の頃、小笠原一族の祖ともいうべき小笠原貞宗がここに居館を構え、松本平・安曇平に勢威を張った。
以来200年、小笠原長時が松本の地を追われるまで「名門・小笠原」はその名を恣にしていた。
と考えていくと。
甲斐から諏訪へ、さらに塩尻峠を越えて松本平の地へ侵攻してきた
信玄は、まさに「意欲的!」
そして名門にふんぞり返っていた長時は「おぼっちゃん!」か。
松本・安曇一帯で、圧倒的に信玄ファンが多い所以か。
写真は井川城の居館から東へおよそ4㌔。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20121219/23/yamazakibakufu/b1/34/j/o0800060012337714170.jpg?caw=800)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20121219/23/yamazakibakufu/44/32/j/o0800060012337714169.jpg?caw=800)
およそ100年後の1450年頃、小笠原清宗(長時の4代前)が居城を移した林城址。
松本平一帯が一望できる難攻不落の山城。
世は応仁の乱が勃発する直前。
小笠原氏も戦国時代に対応した居城を築城したのである。
しかし長時は100年居城としたこの城に拠って戦うこともなく、城を捨てることに。
以来武田の支配となった。
信玄、恐るべし!