●命賭けた「鈴鳴り武者」 | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

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熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。


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 信州往来もののふ列伝
巻三十九 仙石秀久

仙石秀久(せんごくひでひさ 15521614) 
 (イメージ画・長幅愛 松本第一高校3年)
戦国~江戸時代初期の武将・大名。美濃の豪族の出身。
後に小諸藩初代藩主となる。
美濃斎藤家が滅び、織田家に仕えるも、
「おもろい面どうし、秀吉の家臣となれ」と信長に命ぜられたとか。
秀吉の最古参の家臣の一人となった。

以来合戦ごとに戦功をあげ、賤ヶ岳の合戦後は淡路洲本5万石の領主に。
天正13(1585)年には讃岐で10万石を得た。
ところが九州攻めでの大失態が秀吉の逆鱗にふれ改易、浪人。

しかし4年後捲土重来を期しての小田原攻めで大活躍
ついに小諸5万石の藩主に復帰した。
慶長19(1614)年病死。享年63

  「無」の境地となった秀久
「なんたるたわけじゃ! ぬしのようなやつは追放じゃ、さっさと高野山へでも行け!」

秀吉の怒号が針のようにグサグサと全身に突き刺さった。

「殿……」何も弁明出来ず、涙さえ出ずうちひしがれる秀久。領地は召し上げられ一介の流浪者となってしまった。

秀吉の家臣といえば加藤清正・福島正則・黒田長政らが「秀吉子飼いの武将」または「豊臣七将」などと世に名高い。
「あの洟垂れ小僧どもが今や何十万石の大大名よ」
と秀吉が目を細めた子飼いの家臣たち。


それに比べると仙石秀久は、
「センゴク? 知らんなぁ」
と一般的には無名、小説・ドラマにまったく縁無し。

だが当初はすごいスピード出世だった。

秀久から見れば、
「虎(清正)や市松(正則)あたりはただの一兵卒よ」。

秀久が淡路洲本に5万石を得た頃、清正・正則は1万石に満たなかったほど。
そして四国平定後は10万石に、さらに九州攻めでは実質総大将の軍監に任ぜらた。
まさにトントン拍子、秀吉家臣中随一の出世頭だった。


天正14(1586)年の九州攻め。これが秀久にとって不運だった。
秀久は6千の軍勢を率いて豊後に渡り、島津勢1万余とにらみ合った。
「わしの本隊が行くまで仕掛けてはならぬ」
との秀吉の命に反して、功を焦ったのか秀久は攻撃命令を下した。

ところが地の利を得る島津に大敗北。
海を戻って讃岐まで逃げ帰ったというのだから秀吉が激怒するのは当たり前か。
秀久は兵の全滅を避け温存をはかったのかもしれない。
だが軍令違反・大敗北・退却の大失態はとても許されるものではなかった。

流浪することと4年。秀久は、
「九州での屈辱をなんとしても挽回せねば!」
の一念に燃えていた。

小田原市郊外の石垣山、通称一夜城址
天正18(1590)年の小田原攻めの際、秀吉が一夜で築城したように見せたといわれる山城からは、今も眼下に小田原城天守を睥睨できる。
山の上に城が突如出現したとなれば北条方は仰天したろう。
小田原評定」なんぞしている場合ではなかったのだ。

  
秀吉が諸国から動員した兵20万余が城を囲む中、最前線でひときわ目立つ侍大将がいた。
かかげた旗印は「無」。
身につけた陣羽織にあらん限りの鈴をぶら下げた「鈴鳴り武者」。
仙石秀久、その人であった! 
(続く)

 

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「信州往来…」というタイトルなれど、      

      登場するもののふに意外な面々が。     

 

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 ▼「信濃毎日新聞・書評」です        

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