信州往来もののふ列伝巻三十一海野小太郎幸氏
海野小太郎幸氏(うんのこたろうゆきうじ 1173?-?)
(イメージ画 加納美優・小林香菜 松本第一
高校1年)
源平~鎌倉時代の武将。
木曽義仲の家臣・海野幸親の三男。
義仲が源頼朝との和睦の印として嫡男・義高を鎌倉へ送った際、従者として随行。
義仲・義高の死後は頼朝に臣従し、鎌倉幕府の御家人として活躍。
名高い弓の名手。
信州での海野一族発展の基を築く。
主君・義高を逃し、死を覚悟
弓の名手 義仲嫡男と鎌倉へ
上田市丸子の御嶽堂に、こじんまりと建つ愛宕神社。
義仲旗挙げの地・依田城や樹齢八百年の義仲桜が咲く宝蔵寺は指呼の間、彼方に浅間山の噴煙を望める地にある。
寿永2(1183)年早春、神社一帯に義仲の主だった家臣が続々と参集した。
義高が鎌倉に旅立つ日である。
義高は鎌倉で頼朝の一女・大姫と婚姻するとはいえ、義高11歳、大姫6歳というのだから和睦とはいえ人質同然、家臣の中には鎌倉行きに反対の声もあったが義仲は決した。
「小太郎、義高の武運長久の門出じゃ、みごと射ってみせよ」
「はっ!」
父・幸親はじめ今井兼平・樋口兼光など歴戦の勇士がズラリ見つめる中、小太郎は巧みに馬を乗りこなし笠懸の的をすべて射落とした。
満座やんやの喝采拍手。この時義高と同い年の11歳か。
よってこの神社を以来「小太郎宮」とも呼んでいるという。
「みごとじゃ!小太郎、義高のことしかと頼むぞ」と義仲。
「はい!」
凛と響いた幼い声が見送る人々の涙を誘った。
かくして義高一行は鎌倉へ旅立った。
小太郎幸氏にとってこれがあるじ義仲、そして父との今生の別れとなるとは知る由もなかった。
頼朝一女・大姫の悲劇を見守る
鎌倉では義高と大姫はすぐにうちとけ、無事平穏な日々を過ごしていた。
しかし翌年1月、凍りつくような凶報が。
義仲が鎌倉方との合戦で討死したという。
「なんと殿が! 父上も!」絶句する幸氏。
「さすれば義高様の命も危ないっ」
ひそかに鎌倉脱出を図ったその日。
義高は女装して館から逃亡、幸氏は義高になりすまして、双六などして義高の部屋で過ごした。
しかし夕刻には頼朝に義高逃亡が知れ、直ちに追っ手がかけられた。逃亡には大姫も手助けしたとも。
数日後、義高は討たれた。
一途に慕っていた義高を失った大姫は半狂乱となり、以来生ける屍と化した。
だが死を覚悟していた幸氏は咎を受けなかった。
頼朝は幸氏の類いまれな弓技を惜しんだのか、大姫の姿を見てさらなる酷なことは出来なかったのか…。
十数年後、大姫は焦燥のまま消え入るように息を引き取った。
その間大姫の義高への思いを知りつくしていた幸氏の心中は察するにあまりある。
幕府御家人として成長
東信に海野一族発展の基を築く
鎌倉市扇ケ谷の岩船地蔵堂は、大姫がひたすら義高の冥福を祈った守り本尊を安置するという。
義高死後、幸氏はどう悲傷な心を乗り越えたのか、今は想像するしかない。
はっきりしているのは頼朝の側近・幕府の御家人として幸氏が成長していったことである。
幸氏の活躍は「吾妻鏡」に多く記録されている。
有名な曽我兄弟の仇討事件では頼朝の寝所を護衛して闘った側近の武士に幸氏の名がある。
幕府の弓始めの儀式においては常に1番手または2番手の射手を命ぜられ、5代執権北条時頼に流鏑馬の故実を指南し「弓馬の宗家」と称えられたなどとある。
白鳥神社、興善寺を訪ねると
江戸時代の宿場街を色濃く残す東御市・海野宿の東端に、ケヤキの巨木がそびえる海野一族の氏神社・白鳥神社がある。
幸氏は海野家10代当主となった頃、今の地に神社を建て直したと伝えられる。
幸氏は70歳ころまで幕府に仕え、東信一帯に広大な勢力を張る豪族として海野一族を発展させた。
幸氏から下ること300年後、27代当主・海野幸棟は一族の菩提寺・興善寺を開基した。
白鳥神社から国道18号線を横切って1㌔ほどの所。
高さ15㍍の豪壮な山門に圧倒され、海野一族の繁栄ぶりをうかがい知ることができる。
その子孫は脈々と戦国期の真田氏まで繋がっていったのである。