●信州往来もののふ列伝 巻十四 手塚光盛 義仲に全てを懸け | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

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熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

信州もののふ往来列伝巻十四手塚光盛◆


手塚光盛 (てづかみつもり ?-1184) 木曽義仲の主要な家臣。 

熱く散って逝った武者たちへのレクイエム   金刺太郎光盛ともいう。諏訪武士団の棟梁・金刺盛澄の弟。

上田市の塩田平一帯を支配していたという。義仲の挙兵には当初から従い、寿永2(1183)年、加賀・篠原の合戦で平家方の武将・斎藤実盛を討ち取るなど、勇猛ぶりを発揮した。

しかし翌年の鎌倉方との合戦で琵琶湖・粟津原にて戦死。

(イメージ画 太田あゆみ 松本第一高校2年)





義仲にすべてを懸け

   あるじの恩人とは知らず 

       挙げた首級は実盛 嘆きと後悔…

篠原の合戦は、現在の石川県加賀市新堀川にかかる源平橋周辺が戦場だった。

西は日本海、東は柴山潟という海岸地帯で、古戦場の一角に三武将の銅像が建立され合戦の名場面を表している。

写真をご覧いただきたい。

熱く、散って、逝った武将・もののふ達へ…  右が手塚光盛、中央に樋口兼光、左は天を仰ぐ義仲。

義仲が膝に抱えているのは光盛が討ち取った斎藤実盛の首級である。

熾烈な合戦だった。

倶利伽羅峠で大勝して勢いにのる義仲軍は、背水の陣をしいた平家軍に再び怒涛のごとく突撃、その猛攻に押され総崩れ敗走する平家軍の中で一歩も引かず闘う武者がいた。

その武者に光盛はいどんだ。

「我こそは信濃の国の住人、手塚太郎金刺光盛なり!」

大音声で名乗る光盛。

ところがその武者は、

「存ずる旨あれば名乗らず。いざ!」

両者は激しく闘い組み打ちとなり、そしてついに光盛はその首級を挙げた。ところがなんとその武者は武蔵国の武将・斎藤実盛だった。

武蔵国で、幼き義仲を助けた斎藤実盛

かつて義仲が駒王丸と呼ばれた幼き頃、武蔵国で父・義賢と従兄の源義平の抗争があった。そして義賢・義仲の住む大蔵館(写真下)は突然襲われた。 
 熱く、散って、逝った武将・もののふ達へ… その結果義賢は戦死、
逃亡した駒王丸は厳しく探索された。

駒王丸を見つけた実盛だったが、とても幼い駒王丸を義平に突き出す気になれなかった。

「なんとかかくまってくれまいか」と、実盛は旧友の木曽の中原兼遠にそっと預けた。

義仲は九死に一生を得たのである。

斎藤実盛こそ、まさに義仲の命の恩人だった。

それから20余年、平家全盛の世にあって実盛はその配下となっていた。そんな折あの駒王丸だった義仲が平家打倒の兵を挙げた。

二人は敵味方となって戦場であい見えることになってしまった。

実盛は名乗れば命は助かったろうが平家の将として堂々と闘い光盛に討たれたのである。義仲の深い嘆き、光盛の困惑・後悔…。

この場面が先の銅像である。

 義仲は実盛を手厚く葬り塚を築いた。

 光盛も深く頭を垂れ実盛の冥福を祈ったことだろう。

 熱く、散って、逝った武将・もののふ達へ… 実盛塚は中央に立つ赤松の巨木が壮観で、まるで地を這う竜のごとくである(写真左)。

地元では古戦場の一角の町名を「手塚町」、また銅像の立つ一帯の公園を「手塚山公園」と名付け光盛の武勇を称え、海岸に沿って走る県道20号線を「木曽街道」と呼び、篠原の合戦で熱く燃えたもののふ達を顕彰している。

 篠原の合戦から2ケ月後、義仲は入京して平家を西に追った。

しかしそれから5ケ月後、鎌倉の大軍が攻め上ってきた。

義仲は一転守勢にまわった。

宇治川や琵琶湖周辺で鎌倉方との激しい戦いが繰り広げられた。

光盛も懸命に闘った。

だが多勢に無勢、義仲を守りながら引いては戦い退いては戦った。光盛の最期を「源平盛衰記」はこう記している。

落チヌ討タレヌスル程ニ、主従五騎ニナリタリケル。手塚太郎討タレケレバ…」

 義仲に全てをかけ最後まで守り尽くした光盛の生涯だった。まだ20歳台だったか。

塩田平の個人宅の庭に

手塚光盛供養塔

松本から北へ。三才山トンネル・平井寺トンネルを抜けしばらく行くと塩田平に入る。

その手塚地区に「手塚光盛供養塔」(写真左)がある。

熱く、散って、逝った武将・もののふ達へ… 高さ1㍍20㌢ほどで苔が生えかなり古い。

近くには手塚大城という光盛の屋敷跡と推定される所や手塚八幡社が。かつては光盛寺という寺もあったという。

古刹・前山寺あたりから静かで実り豊かな塩田平の里を一望すると、

「光盛もこのおだやかな故郷に帰ってきたかったろうに…」

とつい感傷的に思う。現代人の感覚か。

因みにマンガ家・手塚治虫さんは光盛の子孫を称していたという。

次の巻は武田耕雲斎(水戸天狗党)。

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