信州往来もののふ列伝 巻十三 木曽義高
8/24付「松本平タウン情報」紙掲載
源平時代の武将・木曽義仲の嫡子。
清水(志水)冠者義高、義基、義重とも。
現在の松本市清水で誕生したという。
寿永2(1183)年、頼朝と対立した義仲は義高を鎌倉に行かせることで和議を結んだ。
しかし義仲が頼朝に討たれたことで義高の立場は悪化、翌年頼朝の命で誅殺された。
(イメージ画 山崎春菜 松本第一高校 1年)
和議のため人質に 入間川で討たれる
義仲の嫡子 悲しいお伽草子
木曽義高最期の地を埼玉県狭山市入間川に訪ねた。
国道16号線を八王子から北へ25キロほど。
「清水冠者源義高終焉の地」(写真)と大書された立看板を道沿いにすぐ見つけることが出来た。
社前の鳥居に銀杏の木を配した清水八幡宮が建てられ義高は祀られていた。
「清水冠者、源義高って誰だ?」
ドラマの主役や小説、教科書とは全く無縁の義高である。
道行く人の多くはとまどうのではあるまいか。元暦元(1184)年4月、義高はこの地で討たれ落命した。享年11か。
義高は松本市清水で誕生し、同地の槻井泉(つきいずみ)神社(写真右)のこんこんと湧き出る泉を産湯の水としたので清水義高と名付けられたという。
母は巴御前とも山吹姫ともいうが定かではない。
頼朝と義仲が平家打倒を掲げて挙兵しておよそ3年、頼朝は関東に、義仲は信濃・北陸に勢力を拡大していくうちに両者の対立が表面化した。
その対立の回避策として義高が鎌倉へ行き頼朝の娘・大姫の許婚となるという条件で和議を結ぶこととなった。
実質的に義高は人質である。
異議を唱えた兼平、「頼朝と戦うべき!」
義仲の家臣・今井兼平は、頼朝とは「終(つい)に御中よかるまじ…」(「源平盛衰記」)、つまり今後仲良くなることはないだろうから、「義高様を鎌倉に行かせず頼朝と戦うべき」と強く主張した。
となると平家と戦う前に源氏同士で戦うことになる。
「何のために挙兵か?」。
義仲が迷い悩んだことは想像に難くない。
義仲は嫡子の鎌倉行きを決断した。
旅立つ前、義高は義仲や多くの家臣の前で見事な笠懸の腕前を披露し信州を後にした。
鎌倉では許婚となった大姫が義高をおおいに気に入って兄のように慕ったという。
大姫5~6歳か。
これがまた後の悲劇をうんだ。
その翌元暦元(1184)年、義仲が鎌倉方によって琵琶湖畔で滅ぼされると義高の立場は悪化した。
身の危険を察知した義高は従者を身代わりとして屋敷内に居住しているように見せかけ、ひそかに北へ逃亡した。
めざしたのは信州か、それとも父・義仲の生まれ故郷の埼玉県嵐山町か。
嵐山町は入間川から北へ30キロほどの所で、この地の古刹・班渓寺は義高の母といわれる山吹姫が義高の菩提を弔うために建立したと伝えられ、山吹姫の墓(写真)もある。
しかし逃亡して5日目、義高は頼朝の命を受けた追っ手に入間川で追いつかれ討たれた。
短くはかない生涯だった。
義高を失った大姫の嘆きは尋常でなかった。
その悲しみはついに和らぐことなく18歳頃、悲愁のうちに息をひきとったという。
二人の悲話は後に御伽草子「しみず物語」などとなって広まり多くの人々の涙を誘った。
鎌倉のはずれ 常楽寺にお墓
蝉の音が降りしきる真夏のある日、私は鎌倉市の西のはずれ大船・常楽寺の義高公の墓(写真左・下)に初めて参じた。
墓塔は木曽塚と呼ばれる寺裏の小高い丘にポツンと立っていた。
供えの花は干からび、しばらく墓参者は来なかったようだ。
故郷・信州からの墓参者を義高公はきっと喜んでくれたに違いない。
かつて正岡子規もこの地を訪ねたのだろう。こんな句を残している。
ひぐらしや 木曽塚ここに 杉木立
次の巻は手塚光盛