温泉 銭湯。 | 女浪士 あずみ

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江戸時代初期、都市生活の発展を反映し、湯屋営業も普及し、入浴料をとって風呂に入れる銭湯が誕生しました。『慶長見聞集(けいちょうけんもんしゅう)』三浦浄心(1614年)には、天正19年(1591年)に伊勢与市が銭瓶橋に銭湯風呂を建て、永楽一銭の入浴料を取ったとあります。これより居風呂・鉄砲風呂・子持風呂・戸棚風呂・五右衛門風呂などいづれも湯を張った「お湯」が出来、その種類も増しました。

それらはいずれもが蒸し風呂ではなく、湯を張った風呂でした。奈良時代の温浴は沐浴潔斎であり、入浴作法が定められ、結界思想もあって入浴には必ず明衣(麻白布の衣)をまとい、鎌倉、室町期もこの作法に準じましたが、江戸期になるとこれが簡略化され、湯具としては手拭・浴衣・湯褌・湯巻・垢すり(呉絽の小布)・軽石・糠袋・洗い子などを風呂敷に包み銭湯へ通うようになりました。

そして風呂敷はやがて銭湯などで他人のものと区別しやすいように家紋や屋号を染めるようになっていきました。こうして、湯道具を”風呂に敷く布”のようなもので包むようになり、その四角い包み布を”風呂敷包み”と呼ぶようになった、ということが考えられます。

江戸初期の作家、井原西鶴(1643-93年)の文学作品中には風呂鋪包、風呂鋪つつみ、お着物の入りたる風呂敷、などの風呂敷と包みを合成した言葉が多く見られます。

風呂敷という名称に関する最初の記録は、徳川家康(1542~1616年)没後の元和2年(1616年)に生前の所蔵品を近親に分散した際の遺産目録のなかで、尾張の徳川家が受けついだ明細書である『駿府御分物御道具帳』に見られます。

ここで言う風呂敷は、こくら金入敷物と並び記されています。木綿の生産は各地にはじまったばかりであり、木綿の敷物は当時としては高級品でした。家康の所蔵した「こくら木綿風呂敷」は字義の通り、風呂の敷物であり、包みものとしての風呂敷ではなかったと思われます。

この記録から風呂敷の名称は、戦国時代にはすでにあり、平包から風呂敷へ呼称の変化する時期は『近世事物考』久松裕之(1848年)に「寛保の頃より平包の名はうしないて、物を包む布を、皆ふろ敷と云なり」とあることから元禄・宝永の頃までは、平包と風呂敷包みの呼称が混在し、次第に風呂敷に統一されたのだと思われます。現在でも平包みと呼ぶことはありますが、この場合は風呂敷を結ばずにたたむ包結方法をさし示す言葉として用いています。

江戸中期、古学・国学の発達から近世の学者達によって事物起源や語源による語彙の解明をすることが盛んとなって、風呂敷の解釈も試みられるようになりました。