今日はハワイ移民出発の日 | 女浪士 あずみ

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1848年、ハワイ王朝は外国人に土地の所有を認め、ヨーロッパの資産家たちは、積極的にサトウキビ栽培に投資をし、いくつもの農場を作りました。

やがて、地元の人だけでの農場の維持は困難になり、中国からの移民を受け入れますが、彼らの定着率は悪く、次なる移民として日本人が目をつけられました。

当時の日本は江戸時代末期、ハワイ王朝は徳川幕府に日本人の移民を要請し、合意を得ていました。

しかし、政権が明治政府へと移り、新政府は徳川時代の合意を認めなかったために、ハワイ王朝を代表して交渉していた領事が、1868年に153人の日本人を強制的に送り込みました。

彼らのことを移民の元年者と呼びます。

1885年、日布移民条約が結ばれます。

日本人をハワイのサトウキビ畑で働く労働者として3年契約で送るという取り決めが交わされます。

当時の日本は、農村を中心に経済が行き詰まり、近代化によって身分や土地に縛られていた人々が、都市に仕事を求め集まっていました。

より良い生活を夢見て多くの人々がハワイへ渡ったのです。彼らが日系民の1世たちです。

主に広島、山口、熊本、福岡などの農村からの移民でした。

1894年までに移民条約の下でハワイに渡った日本人は2万9000人以上だと言われています。

彼らは政府斡旋の移民ということで官約移民と呼ばれています。しかし、官約移民は雇用者とのトラブルが相次ぎ、1894年に一時停止されます。

1894年からは、日本で移民斡旋会社がいくつも設立され、移民が再開します。1894年以降の移民たちを私的移民と呼びます。

この移民形態は、1908年の終了までに10万人もの日本人を送り出しました。

1924年に新しい移民法が成立し、日本からの移民は事実上不可能になりましたが、1868年の元年者から数えると13万人以上もの人が日本からハワイへと渡りました。

移民の多くは、ハワイに永住することを目的とした定住型ではなく、数年働いて故郷へ戻る出稼ぎ労働者でした。当事の日本の年収が10円だったところ、ハワイでは212円稼げたそうです。

契約期間の満了とともに帰国した人もいましたが、様々な事情からハワイに留まる決意をした人も多く、彼らは次第にハワイ社会に溶け込んでいきます。

2世の歴史を語る上で切り離すことができないのは、戦争です。

1941年の日本軍による真珠湾攻撃を受け、日米が戦争へと突き進んでいく中、ハワイ生まれの2世たちは米国人としてのアイデンティティーを求め、次々と志願し戦場に出ていくのです。

戦争が始まると、アメリカ本土にいた日系人は敵国の国民として強制収容所へと送り込まれるのですが、ハワイでは少し事情が違いました。

日系人があまりにも多く、(1940年代初頭の日系人の人口は、ハワイ全州の40%を占めていました。)全てを収容所に送り込むには、膨大な経費と土地が必要となること、ハワイの経済が成り立たなくなってしまうことから現実的に無理があり、強制収容所に送られたのは、アメリカ政府より日本への忠誠心が強いとみなされた仏教や神道の聖職者、日本語学校の教師や経営者、漁業従事者、日本語新聞の編集者、領事代理など日系社会のリーダーたちでした。

1200~1500人が強制収容所の送られました。

戦後は、これまで日系社会の中心的役割を果たしてきた1世たちが一線から退き、2世や完全にアメリカナイズされた3世たちが次第に影響力を持つようになり、ハワイやアメリカ社会への同化を果たすことになります。