『日本国憲法にある国民主権は、帝国憲法下の天皇主権が、国民に移ったものだ。』

と主張する人がいます。

本当でしょうか?


始めに

『そもそも帝国憲法は天皇主権なのか?』

という点について考察していきたいと思います。



確かに帝国憲法の第1章には、天皇大権が羅列されています。

しかしこれらの条項を指して

『帝国憲法は天皇大権が書いてあるから天皇主権だ!』

と指摘するのは的外れな主張です。


そもそも天皇大権とは何でしょうか?


天皇大権とは天皇陛下が総覧される統治大権の1部を成文化したものです。

統帥大権、一般条約締結大権、軍の編成大権、行政大権、司法大権、立法大権、宣戦布告大権、憲法改正発議大権 等々が、帝国憲法には天皇大権として明記されていますが、これらは全て統治大権の1部です。


ちなみに憲法制定大権や元号制定大権など、帝国憲法に明記されていない天皇大権もありますがこれらも統治大権の一部です。

このような基本をおさえると、重要なことが見えてきます。


それは

『憲法によって始めて天皇に大権が与えられていると言う訳ではない』

ということです。

このことは帝国憲法義解を読めば分かります。

『憲法に殊に大権を掲げて之を条章に明記するは憲法に依りて新設の義を表すに非ずして【固有の國體】は憲法に由って益々鞏固なることを示すなり』

つまり

『憲法によって天皇に大権が与えられている』という訳ではなく『天皇大権がまず存在して、それを成文化したのが憲法』ということなのです。その目的は『固有の國體』を強固にするためだと帝国憲法義解にはっきりと書いてあります。


これは『憲法によって天皇に大権を与えたり(帝国憲法)奪ったり(日本国憲法)することはできない』と言われる所以です。



少し脇道にそれましたが、上記の理由より

天皇大権=天皇主権

というのは、正しくありません。

天皇大権は天皇統治大権の一部

と言うのが正しい認識です。


このように説明すると

『天皇陛下の統治大権そのものが天皇主権だ!』

と、とんでもないことを主張する人がいます。


帝国憲法義解は『統治』について以下のように説明しています。

『統治は大位に居り、大権を統べて国土及び臣民を治めるなり』

『所謂【シラス】とは即ち統治の義に他ならず』

日本書紀・古事記には、統治態勢を表す言葉として『ウシハク』『シラス』という2つの言葉が出てきます。


『ウシハク』と言う言葉が私有する専有すると言う場合に使われるのに対して、『シラス』とは民の心を広く知って公平に治めると言う意味になります。


政治的に表現すれば議会や法律や政府などを一切無視して、権力者が自分勝手に物事を決めて決行するのが『ウシハク』とするならば、法律や民意の代表である議会の決定を尊重して物事を決めていくのが『シラス』というところでしょうか?


このとき前者つまり『ウシハク』を専制政治=君主主権、後者つまり『シラス』を民主主義とも言えるわけです。

帝国憲法義解では上記の通り『第1条にある統治とは『シラス』のことである』と言っているので、『ウシハク』の概念つまり専制政治=君主主権を完全に否定しているわけです。

ちなみに帝国憲法を草案した井上毅の案では、第1条 大日本帝国は万世一系の天皇之をシラス

であったと言われています。



また、視点を変えて帝国憲法義解をみてみると

『天皇の宝祚は之を祖宗に承け、之を子孫に伝う国家統治権の在する所なり』

とあります。

現代口語訳すると『祖宗から子孫に繋げていく皇位に統治大権が存在する』という意味です。

これは時の天皇陛下、一個人に統治大権が存在すると言う概念を否定する表現です。


天皇個人ではなく皇位に統治大権が存在するとはどういう事なのでしょうか?

これは天皇陛下の上位に存在するものがあることを示しています。


主権というものは本来唯一絶対の力を指し、主権を保有している者の上位には何者も存在しないとされています。そのような主権論に立ってしまえば、主権者は議会にも法律にも歴史にも伝統にも縛られることなく、自分の好き勝手にできるわけです。

このことを踏まえてみたとき、統治大権が天皇陛下個人ではなく、祖宗から伝わる皇位にあるとするのは、スメラミコト(天皇陛下)よりスメラギ(皇宗)の方が上位にあるということになります。

ということは時の天皇陛下よりも日本の歴史、言い換えれば國體の方が上位にあることになります。

つまり『天皇と言えども國體の下にある』となるのです。


これは反対の概念を考えれば分かりやすいです。つまり

時の天皇は、歴史や國體、憲法や法律に関係なく何をやっても良い権限が与えられる

もし、このような条項が帝国憲法にあればそれこそが天皇主権と言うべきなのです。


以上のように帝国憲法義解の『天皇の宝祚は之を祖宗に承け、之を子孫に伝う国家統治権の在する所なり』と言う部分を持ってしてもまた、天皇主権を否定していると言えるのです。


また帝国憲法義解では第4条について『統治権を総覧するは主権の体なり。憲法の条規に依り之を行うは主権の用なり。体有りて用なければ之を専制に失う。用有りて体なければ之を散漫に失う。』

とあり、これを現代口語訳にしてみると

『憲法の条規に依て統治を行うのは、主権の用(作用=機能)である。凡そ体(統治権)だけあって、用(憲法による統治)がなければ、専制政治となって効用を失ってしまう。反対に用(憲法による統治)だけがあって、体(統治の主体)がなかったならば散漫に流れてこれまた用をなさない』となります。


ここでは明確に『専制』と言う言葉を使い、憲法に依りて統治権を運用するのは、専制政治を防ぐためである。

と、はっきりと専制政治を否定しています。専制政治とは君主主権とも言い換えれます。


余談ですが、『体(統治の主体)がなかったならば散漫に流れてこれまた用をなさない』という個所を見るとき、現代の日本はまさに『散漫に流れて用をなさない』状態だといえます。


以上のように帝国憲法義解を読めば、帝国憲法は天皇主権を明確に否定していることが分かります。


ここで冒頭にあげた

『日本国憲法にある国民主権は、帝国憲法下の天皇主権が、国民に移ったものだ。』と言う主張を振り返ってみます。

いままで見てきたように帝国憲法は天皇主権ではありませんでした。それどころか明確に天皇主権を否定しているのが帝国憲法です。


それでは日本国憲法にある『国民主権』はどこから来たのでしょうか?

そもそも日本の歴史に天皇主権にしろ、国民主権にしろ『主権』という概念もなければ、『主権』によって国家運営してきたという歴史的事実もありません。

となると『国民主権』は外部から持ち込まれたことになります。



そう。


『国民主権』は帝国憲法から移されたのではなく、GHQから与えられたものなのです。


今回の趣旨と外れますので、深堀りしませんが外国の軍隊から与えられた『国民主権』とはそんなに大切なものでしょうか?

是非とも考えて見てくださいm(_ _)m






最後まで読んでいただきありがとうございます。

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『日本国憲法無効論集』