日本国憲法第一条にある国民主権を指して、「あれは西欧でいう国民主権ではない。ただの憲法制定権である。だから國體は守られていて日本国憲法は有効である。」
と主張する者がいるようです。
そもそも憲法制定権とは何でしょうか?

昔の古代国家には律令というものがあり、それを中心に国の運営を営む国を律令国家といいました。律とは刑法を令とはそれ以外の法を意味します。
律令と憲法とは厳密にいうと全く同じものとは言えませんが、律令とは最高法規であり、それを中心に国家を運営していくという点だけに視野を絞ってみれば律令と憲法の立ち位置は似ています。

冊封態勢においては、律令を定めることができるのはシナの皇帝だけです。王の位をシナに認めてもらった周辺の朝貢国は、シナの皇帝が定めた律令を使用します。
もちろんそのままでは、各国に合わないので「格」と言われる臨時法を制定して使っていました。
つまりシナに朝貢する周辺国には律令を定める権利はなく、その律令制定権、言い換えれば憲法制定大権はシナの皇帝にしかなかったのです。

『再び天皇の名のもとに独立自尊を!』に書いたように日本は天皇の称号のもとに冊封態勢を脱して独立しました。そしてシナの律令をそのまま使うことなく日本独自の律令を作り国を運営しました。
謂わば憲法制定大権の萌芽です。

独自の律令を持つ。
つまり憲法制定大権がその国にあるという事は、独立自尊の宣言です。そして古代の時代律令制定権(憲法制定大権)は天皇陛下にあったのです。
律令制定権つまり憲法制定大権は、それほど重い意味合いを持ちます。
この憲法制定大権がなければ、他国の制定した憲法(律令)を使うしかない。それは朝貢する国つまり属国という地位である。


そのような重い意味合いを持つ憲法制定大権が国民にあると言うのならば、それこそが国民主権ではないでしょうか。
詭弁を弄して国民主権の批判を交わそうと小賢しい手法を用いても所詮手前味噌、結局はボロを出して国民主権を暴露してしまいます。

確かに帝国憲法には、憲法制定大権は書かれていません。帝国憲法とは國體を文字に描写したものですが、國體の全てを文字に起こした訳ではありません。
帝国憲法に書かれていないからといって「憲法制定大権は天皇陛下にはない。」などと言うことにはならないのです。

そもそも憲法制定大権の下位に位置する憲法改正大権でさえ帝国憲法に記されている大権の中で唯一の一身専属権という最も重要な大権とされている事実があります。それならばその上位にある憲法制定大権が国民にあるという理屈は、帝国憲法を否定する国民主権の思想そのものです。

先に「他国の制定した律令(憲法)を使うのは属国である。」と表現した。
真実として。日本国憲法は帝国憲法を改正したものではない、日本国憲法前文には国民が制定したとあるが真実はそうではない事はもはや、多くの人が知るところです。
そう日本国憲法は、GHQ草案から始まり帝国議会を監視統制してGHQが作ったモノなのです。外国が作ったモノなのです。

GHQが作ったモノを憲法と主張するならば、外国の作った憲法を使う日本国は属国であるという事を主張することになります。

『再び天皇の名のもとに独立自尊を!』で書いたように天皇という称号のもとに先人は独立自尊の道を選びました。
属国となることを良しとはしなかったのです

しかし現代、「国民主権は憲法制定権である。」と主張し、GHQが日本国憲法を作ったという事実から目を逸らし、「日本国憲法は憲法として有効だ」と主張します。

その主張の意味するところは、帝国憲法及び国際法に違反してGHQが作った日本国憲法を日本国の憲法としてしまうことで、日本人自身が日本国は属国であると宣言しているのです。

実際占領後に延々と行われた土下座外交が日本が属国であると世界に向かって宣伝してしまったではないですか!


「日本国憲法第一条にある国民主権というのは、憲法制定権なので國體は守られている。よって日本国憲法は有効である。」などというデマに流されてはいけません。
日本の歴史を見るとき、天皇大権である憲法制定大権が国民に在るとするのは、国民主権により國體を否定していることとなり、日本人としては決して受け入れられないことなのです。

『憲法制定大権は天皇に在る。』
この正統なる認識は、1400年前の先人たち習って天皇の名のもとに独立自尊を宣言することなのです。