キンドル本・第三弾 「雷鳥の里」② | 矢的竜のひこね発掘

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ご当地在住の作家が彦根の今昔を掘り起こします。

 学業を終え入社した1970年は、タイガー計算機が販売終了を宣言した年でもある。

 私は経済学部の卒業だったせいか、命じられた仕事は原価計算だった。

 

 一応、原価計算概論という講義の単位は取っていたが、実務は一切知らない。基礎から教えなければならない先輩社員は、さぞ迷惑だったにちがいないが、こちらも当惑した。

 

 なにせソロバンが弾けないことには仕事にならない。足し算、引き算はともかく掛け算、割り算となると、やたら時間がかかる上に、答えが正しいという保証はない。

 

 その乗除算を手助けしてくれたのが、機械式のタイガー計算機だった。ハンドルを回すとチンと音が鳴る。すると1回分逆回しする。それが求める解となる。月末にはチンという響きで、課内はにぎやかだったものだ。

 

 とはいえ、そのタイガー計算機でも先輩方のスピードには到底かなわない。だが、救いの神は存在した。電卓である。これさえあれば計算でまごつくことはない。

 

 その電卓だが15人ぐらいの課なのに1台しかなかった。この原稿を書きながら電卓の歴史を眺めてみた。世界最初の電卓は1961年に登場したらしい。真空管式だから図体がでかく、14キロと重くて、極めて高かったそうだ。

 

 1964年にシャープが世界初のオールトランジスタ式の電卓を出す。価格は53万5千円と、車の価格と肩を並べるほど高価なものだったという。

 さらにIC、LSI式へと技術開発は急速に進められていく。実は「電卓戦争」の真っ只中だったのだ。

 

 残念ながら私が頼りにした電卓がどこのメーカーの製品だったのか、は覚えていない。一課で何台も買えるほどの値段まで下がっていなかったのは確かであろう。

 

 そうした時代背景の中で、私は原価計算の実務を叩き込まれ、2年目には棚卸業務を教わり、決算の仕事の一環をお手伝いしながら会計の仕組みを習っていった。

 

 この体験が「雷鳥の里」を書く上で大いに役立った。(続く)