「宗教的」情操教育は社会に必要か | ドット模様のくつ底

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奈良が好きなライターの瞬間ブッダな日々の記録。
福祉的な目線から心の問題を考えています。

「宗教的」情操教育は社会に必要か



皆さんはこう尋ねられた場合、
必要だと思われますか?

私は必要だと思っています。



『蓮は泥の中で育ちながら泥に染まらない』(講談社刊)
東大寺別当 北河原公敬氏のご著書の

「宗教的」情操教育
という節から一部を抜粋引用させて頂きながら、
考えてみたいと思います。


20世紀末から現在にかけての世間を騒がせる事件を見ておりますと、
胸を痛めるような悲惨なものが多いと感じられてなりません。

命があることのありがたみといいますか、
生きていることの実感といいますか。

どうもそういうようなことを自覚してもいなければ、
思いすら致したことのない人が増えているのではないか。

そう思わざるを得ないです。

弱い子どもを狙った犯罪や生まれてきた赤ん坊を殺める。
「誰でもよかった」と言って、無差別に人を傷つける。

それぞれの事件には、加害者の言い分や生い立ちもあるでしょうが、
根本的には、他人など存在しないかのような振る舞いが共通点と言えます。

・・・・・・・・

普段から自分ひとりの我を通すことばかりにかまけはしても、
決してそれを改めることもなければ、
たしなめられる機会もない。
そういう生活が当たり前になっているように思います。

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「話せばわかる」ということもありえるのですが、
「いつも自分だけが正しい」という思いがある人にとっては、
誤解とは相手の罪でしかないのです。

世の中で起きることは、複雑にさまざまな事柄が絡み合って生じているので、
簡単に「これが原因だ」とは言えないと思いますが、
私なりに考えてみると、
どうも戦後になっての政教分離によって、公教育では
宗教がまったく取り上げないことになった、
それが昨今の「自分さえよければいい」という世相を招く
背景にあるのではないかと思っています。

もちろん、政教分離は必要なことです。
戦前は一つの考えしか許されない時代でもあり、
そのことによって、ひずみが生まれました。

それに「この宗教はいいが、あれば良くない」と
教育するようなことは、
間違っても公教育では行ってはなりません。

ただ、戦前の反省を踏まえての政教分離の政策にも
問題があるだろうと思うのです。


つまり、政治と宗教を分離するのは
よかったですが、棲み分けた結果、
宗教が担っていた重要なところを忘れ去ってしまった。
それは分離ではなく、単なる消去です。

そこの問題を皆さんにも考えて頂きたいのです。

(一部の抜粋引用、おわり)

別当がおっしゃるのは、

宗教心を養う宗教的な「情操教育」の部分のことであり、
それは「仏教を信じなさい」「仏教を教育現場に取り入れたほうがいい」
というようなことではないとのことです。

この部分はデリケートで誤解を招きやすい問題であるとした上で、

「特定の宗教を信仰することで豊かな心をはぐくむ」というものではなく、

「世の中には尊ぶべきものがあって、侵してはならないもの、
大切にしなくてはならないものがある。
それには尊厳をもって接しないといけない」

といったような気持ちを自然と育てるような教育のことなのですね。


大人側に宗教的な問題を扱うセンスがあるかどうかも
子どもには大きく影響されていくわけですけれども、

「死んだらどうなるか」を、今生きている人は、
誰も死んだことがないので答えることはできないとしても、

普通の教育が「知識」をもって答えることであれば、
宗教的な教育は「想像力と情操」に訴えかけものでありたいというわけです。


タイトル『蓮は泥の中で育ちながら泥に染まらない』

美しい姿をみせてくれる花たちを鑑賞しているだけだったけれど、
それらは決してきれいなだけではなく泥まみれになりながらも
育ってきたのだと、改めて気づかせてくれますね。

生老病死に向き合える心。

どんな環境におかれても凛とした姿でいられるのでしょうか。
きれいなところしか、見てあげていなかったりしませんか。

泣いたって苦しんだって仲間と支えあって生きていけたらいいのにね。




それでは、今日も皆様が幸せでありますように。


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