『心の微笑み』
(東大寺唯心会発行)
「美と醜」
私は学校で美術関係、古美術の研究をクラブでやっていましたので、
佛教の事はあまり知らず、
こちら(東大寺)へ帰ってきてから勉強をはじめました。
今日は、
その学校時代に考えた事疑問に思った事などを中心にお話をしてみたいと思います。
学校では美学(美に対しての学問〉を専攻していたのですが、
そこでちょっとした問題が出てきたのです。
それは〈美〉と〈醜〉という対比において、〈醜〉の中にも〈美〉は存在し得るのか?
ということです。
物事は〈美〉と〈醜〉とに分けることができますが、
その〈美〉とするものがなくなれば(取り除かれれば)
今度は〈醜〉のなかのあるものが、
〈美〉になるのではないだろうか、
そんな疑問が生じ、
話し合った結果、
物事を〈美〉と〈醜〉とに区別するのは、
われわれ人間の諸々の体験がさせ得るのであり、
またそこには、
多くの要素(複数)が存在することによる、
という結論に達しました。
したがって、物全体の現象に伴って〈醜〉も減少し、
最終的にそれが一つになれば、そこには〈美〉も〈醜〉も
存在しないということになります。
〈美〉と〈醜〉とは、複数の中に存在し、
その時点、時点における諸条件の下に、
ある時は〈美〉であり在る時は〈醜)である、
つまり〈醜〉の中にも〈美)は存在し得るのです。
どぶ川を見てもその中に美しいものがあるということです。
これは対象を〈善〉と〈悪〉に置き換えても同じです。
一言で「同じ考え方だ」と言えるものでも、
人それぞれの考え方があり、共通した価値観も、
その内容(質)となると微妙な相違、くい違いが存在するのです。
(昭和57年 筒井寛昭師)