今日は華厳経の教えから
代表的な考え方の一つ
「一即多・多即一」を取り上げさせて頂きます。
<東大寺のお坊様の法話より>
「一即多・多即一」
即は「すなわち」あるいは「そのまま」と読めます。
「ひとつはたくさん、たくさんはひとつ」または、
「小は大であり、一つがすべてである・・・」と言い換えられます。
私たちは、小とか大とか個と全体とかは、動かし難い評価だと思いがちです。
でも、見方を変えてみると
たとえば、
「私」という一人(個)は、一つ一つの細胞から成り立る「多」であります。
そして、その細胞も核やら原形質やらで組織され、
たんぱく質や水から成る「多」でもあります。
見方を変えて、
衣類や家、国家や地球・・・を観察してください。
どれもが一であり「多」でもあることに気づく筈です。
どんなに小さな細かいことでも、
他に影響を与えている。
どんなことでも、他から働きかけがあって成立している。
ちっぽけだと思っている私。
けれど他の全てに関わる大きな働きがあり、
限りない意味が含まれていることを時々思い出す必要が私たちにはあるのです。
この考えを根本においた上で、
お坊様は、
「核である自分のことをみつめてから、多くを捉える場合と、
多くを捉えた上で、核である自分をみつめることがある」
とおっしゃっていました。
少しおぼろげな記憶ですが。。。
この一即多・多即一を意識をすることで、
自分一人では生きておらず、さまざまなことに絡み合い、
自分が生かされていることに気づけたらいいですね。
去年の記事を読み直し、
再掲載をさせて頂きました。
皆さまの一日が幸せでありますように。