できないなら言わない | ドット模様のくつ底

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奈良が好きなライターの瞬間ブッダな日々の記録。
福祉的な目線から心の問題を考えています。

たわごとです。

時々、

私は自分や人の発言を振り返り、気になることがあります。


それは

その発言が、


・できないならば言わなかったことの方がよかったことなのか


・できないけれどできるために、言ってよかったことなのか


ということです。


「できない」かもしれないことを、


「頑張ってみます」といい、


実際できたらそれでいいのですが、


できなかった場合

大切なまわりの人を振り回すことになります。


その時点で

「できなかった」場合は、

「ハッタリ」で乗り越えようとしてできなかったことになります。


ですが、

「できない」かもしれないことを、

できないから言わない(しない)なんていうのは、


すべての「できる」可能性を摘んでしまうことになるんですよね。


まわりに

「ハッタリ」というより、「やる気」として受け止めてもらえる環境があればいいのでしょうけれども、


一歩間違えば人間関係が修復できない程

崩れてしまうことになりかねません。


そう考えると「ハッタリ」は若さの特権のような気もします。


ある程度のお年頃の方ならば、

守るものがあるがために無茶ができなくなっていたり。。。


また、いい塩梅で自分ができること加減がわかっているので、

無茶もしなくて済むようになっていくのでしょうか。。。




私より若い世代の方が

できないことを「できます」というので信じて任せていたら、


「できませんでした」と言われ、


結局こちらがしなければならなくなることがあったりします。


「できないならば、『できない』と言ってもらった方が楽だったのにな」


と思ったときに、


なぜ自分がこれをしなければならないんだろうと考え、


「自分のお役目だろう」「修行だ」

という言葉で乗り越えようとすることがあるので、


今日は記事で考えてみました。


皆さんも若さに振り回されていませんでしょうか。

いつまでも若い人がいますね!(笑)



できるできないの結果の如何にかかわらず、ことばに責任は持ちたいですね。

できなかった場合に相手に
感謝を伝えたり、

次にできるための勉強をするなど。

なかなか思う通りにはなりませんね。

ほんとに責任を抱えたら
できたことなのかもしれないですね!



それでも今日も気合いを入れて頑張りたいと思います。


ここまで読んで頂きまして

ありがとうございました!