東大寺の宗派について②『華厳経』 | ドット模様のくつ底

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奈良が好きなライターの瞬間ブッダな日々の記録。
福祉的な目線から心の問題を考えています。


東大寺の華厳経について取り上げさせて頂きます。

(再掲載です)


『華厳経』の代表的な3つの考え方について


勉強したいと思います。


「一即多・多即一」もその中の一つです。



1つめは「唯心」




存在するものはすべて心の表れであるということです。


私たちは身の回りのことを全て自分の


「色メガネ」で見ています。


そのまま、ありのままの姿を鏡のように


映し出さず、自分のイメージのみで描いた相手(対象)を


見ているのです。


他人はもちろん親友でも夫婦でも親子の間柄でもそうです。


このような仕組みを自覚し、


自らを鏡に近づけ、無用の争いなどを少なくしたいものです。




2つめは「一即多・多即一」




「即」は「すなわち」或いは「そのまま」と読めます。


「ひとつはたくさん、たくさんはひとつ」または、


「小は大であり、一つが全てである・・・」とも言いかえられます。


見方を変えてみると、「私」という一人(個)は、


一つ一つの細胞から成り立つ「多」であるということ。


そして、その細胞も核、原形質などで


組織されたんぱく質や水からなる、


「多」でもあります。


どんなことでも他の働きかけがあって


成立しているということなのだそうです。




3つめは、




「初発心時 便成正覚」(しょほっしんじ べんじょうしょうがく)


「初めに発心したときが便(すなわち)正覚(しょうがく)を成ず」




志を立てたときの心の状態が悟りを開いたときの心である、


ということなのだそうです。


「なるほど!」「 おお、そうだったのか!」


という気づきを繰り返し目覚める瞬間はあるのもの、


すぐ忘却の彼方へ・・・微睡の平素へと帰ります。


それが人間の当たり前の姿です。




しかし、常に「悟り」と背中合わせの状態であるとも考えられます。


「悟り」とは、真理を発見することではなく、


真理に気づくことであるので、当然のことなんですね。




(東大寺の僧侶の法話からまとめました。華厳学の第一人者である木村清孝先生のご著書を参考にされているそうです)