世間が狭いのは土地柄なのか | ドット模様のくつ底

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奈良が好きなライターの瞬間ブッダな日々の記録。
福祉的な目線から心の問題を考えています。

奈良で生きていますと、

【知り合った人が自分のすでに知り合っている人とも知り合い同士だった】

ということがよく起こります。
地方ではよくあることなんじゃないかと思います。

この理由として、

①活動的な人が活動する場が限られていること

②活動する人が「奈良(地元)を盛り上げたい」という思いに統一されていること

③活動的な人を取材するマスコミによる取材対象が、ある程度決まっていること

④自分一人よりさまざまなジャンルの人とイベントをしようと考えたら、同じ「思い」や「活動しやすい人」「地元マスコミに通じている人」が集まりやすくなること

⑤すでに活動的な人同士のつながりが広がっているため


今すぐに思いつくことはこんな感じですが、
皆さんはどう思われますか?

今、お住まいになっておられる土地と比較して、

違いがあれば教えて頂けると幸いです。

奈良で考えると、
自身が活動的なのか、頑張らないタイプかで、出会う人がある程度決まってくるようです。

何かイベントをするとなると、
必ず活動的な人が参加しますから。

一方で奈良人の中には、この風土に影響された形で、
頑張らない人もいます。

奈良は頑張らなくても気持ちが充たされる土地でもあると思うんですよね。

ある部分では二極化されていたりもします。
それでもいいところは、
どちらも共生できる土台があることなんですよね。

私はどちらの奈良も好きです。

私は不器用なので、何にでも積極的にではなくても、自分で活動していく中で、かかわりを選んで共生していけたらと思っています。

活動すると、
【知り合った人が自分のすでに知り合っている人とも知り合い同士だった】

ことがよくあるからこそ、すべての出会いは自分にとっての、

「ご縁」だと考えて大切にしたいと思います。