「マリー・アントワネット」 記号から人間への還元 | やまたくの音吐朗々Diary

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マリー・アントワネット

1月20日より公開の映画「マリー・アントワネット」の試写。

監督はソフィア・コッポラ。出演はキルスティン・ダンスト、ジェイソン・シュワルツマン、アーシア・アルジェント、マリアンヌ・フェイスフルほか。衣装はかつて2度のアカデミー賞受賞を誇るミレーナ・カノネロ。

フランスの王妃、マリー・アントワネットの生誕250年にあたる昨年、フランス政府の全面協力のもと、ヴェルサイユ宮殿で撮影を行った話題作である。

マリー・アントワネット。それは記号である。

世界史としての記号。

楊貴妃やクレオパトラと同じように。日本史でいう卑弥呼と同じように。教科書に出てくる記号。彼女たちが何をしたか、そのひとつくらいは知っていたとしても、その人間性はもちろん、彼女たちが何を思い、感じ、考えながら生きていたかは、知る由もない。

映画「マリー・アントワネット」は、そんな記号を、ひとりの人間に還元した作品である。記号には顔がないが、人間には顔がある。しかもこの映画は、すばらしいことに、その顔に表情まで与えている。青い瞳や白い歯や笑いえくぼのひとつひとつにまで、神経や血管、そして、生命の息吹を行き届かせている。

ガチガチの歴史的大作に見られがちな記号の羅列による歴史教科書の焼き直し——つまり、歴史をあくまでも歴史として薄暗いスクリーンのなかに閉じ込めるのではなく、彩度を高めた軽やかな空気のなかに、記号を解き放ったことも、本作を成功へと導いた要因のひとつだったように思う。

記号は人間へと変わり、物語は250年前の地点から現代へ、スーっと歩み寄ってきた。

映画を見ているまさにこの瞬間、ヴェルサイユ宮殿に行けば、すべての出来事がリアルタイムで見られるような錯角を起こさせるほど、同時代的な雰囲気が大事にされている。

それは、ソフィア・コッポラ監督が、演出や音楽、衣装、美術……など、その一つひとつの映画的要素から、あえて“厳(おごそ)かさ”を取り除き、作品全体にポップでビビッドなコーティングを施しているからにほかならない。

結果、この作品は、堅苦しい歴史的大作の枠に収まることを逃れている。

物語は、14歳でフランス皇太子妃として嫁ぎ、王室特有のしきたりや慣習にとまどい、迷い、葛藤しながらも、18歳で王妃となり、さらに成長していくひとりの女性の姿を描いている。

政略的に結婚させられたアントワネットは、四六時中、多くのひとに監視されながら生活を送る。大勢に見守られながら迎える初夜や出産。自分ひとりで着替える自由すらない。

あげくの果てには、自身の母に「忘れないで。世継ぎが生まれないかぎり、あなたの立場は危ういのです」と言われる始末。時代感覚のズレを差し引いても、その不自由さ、不びんな運命に同情を寄せずにはいられない。

毎日のパンにさえありつけずにいる庶民と、常にカラフルなドレスやスウィーツに囲まれたアントワネットのどちらが恵まれているかは、物質的な側面からすれば言わずもがなながら、精神的な側面からすれば、単純に甲乙がつけられるものではない。

ただ、“葛藤”で始まったフランス王室でのアントワネットの生活が、途中から“慣れ”と“惰性”に変わっていく、その変化を描いている点も見逃せない。

豪遊と浪費に明け暮れ始めるアントワネット。

だが、償いの時はやって来る。

それはそうだろう。庶民の税金を使っての豪奢な生活ぶりは(当時アントワネットは「赤字夫人」と呼ばれていた)、それが、いかなる葛藤や寂しさの埋め合わせだとしても、容認できる類のものではないのだから。

本作は、フランス革命という激動の時代背景を受けて、アントワネットがヴェルサイユ宮殿を追い出されるところで幕をおろしているが、史実としてつけ加えるならば、その数年後に、アントワネットは、夫であるルイ16世共々、国家を裏切った容疑で処刑されている。

数奇な運命に翻弄されながら、盛衰それぞれの極みを味わい、哀しい最期を迎えたマリー・アントワネット。

歴史的な記号として彼女をとらえるなら、「善」という声も、「悪」という声も、上がって然りなのだろうが、21世紀に作られた本作品が、彼女に何らかの審判をくだすことはしていない(そもそも本作品は政治的視点を極力排除している)。

善し悪しを明確にするのではなく、やさしいまなざしで、一時代を駆け抜けたひとりの、愛らしく、不自由な王妃の姿を甦らせたにすぎない。

オススメ指数:70%(最大値は100%)
補足:史実にこだわる方は50%

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