銅鏡にはさまざまな銘文が鋳出されたものがありますが、そのなかに年号が記されている「紀年銘鏡」というものがあります。
その紀年銘鏡は、日本国内から十数面出土しています。
そのうち9面に、邪馬台国の卑弥呼が遣使朝貢した魏の年号が記されてい
て、さらにそのうちの7面が「陳是作」となっているのです。
■「陳是作」の紀年銘鏡
(1)景初三年銘三角縁神獣鏡 神原神社古墳(島根県)出土
(2)景初三年銘画紋帯神獣鏡 和泉黄金塚古墳(大阪府)出土
(3)景初四年銘盤龍鏡 広峯古墳(京都府)出土
(4)景初四年銘盤龍鏡 (伝)持田古墳(宮崎県)出土
(5)正始元年銘三角縁神獣鏡 蟹沢古墳(群馬県)出土
(6)正始元年銘三角縁神獣鏡 森尾古墳(兵庫県)出土
(7)正始元年銘三角縁神獣鏡 竹島古墳(山口県)出土
※3と4は同型鏡、5・6・7も同型鏡と推定されています。
■景初三年銘三角縁神獣鏡(神原神社古墳出土)
※大阪府立近つ飛鳥博物館図録5『鏡の時代―銅鏡百枚―』1995より引用
この「陳是」を「ちんぜ」と読んで人名だと仮定しますと、「陳是」はまさに紀年銘鏡の申し子と言ってよい鏡工人ということになります。
※陳是を「ちんし」と読んで陳氏と同義だとする説もありますが、今回は便宜上このように設定します。
さて、(3)(4)の鏡に記された「景初四年」には大きな謎があります。
それは、魏の年号には「景初四年」がないことです。「景初三年」の次の年は「正始元年」なのです。
「景初三年」は西暦では239年ですが、この年の正月に魏の明帝が崩御し、翌年の240年は「正始」という年号に改元されているのです。
その歴史上存在しない年号がなぜ日本で出土した銅鏡に記されているのかが謎なのです。
そして、その謎を解くには、239年が景初三年であることを知りながら、「240年が正始元年であることを知らない陳是」と、「240年が正始元年であることを知っている陳是」という二人の陳是を想定しなければならないのです。
もう一つ注目すべきことは、陳是の鏡のなかに卑弥呼の鏡と言われている「三角縁神獣鏡」があることです。
三角縁神獣鏡は日本からは大量に出土しますが、中国からは一枚も出土しません(ただし、数年前に見つかったという見解も一部にはあります。念のため)。
「卑弥呼の鏡か、否か」という論争も続いている謎の鏡なのです。
さて、それらの謎を解くには、
・陳是は日本にやってきて鏡を作った。
・改元を知らずに「景初四年」鏡を作った。
・その直後に改元を知って「正始元年」鏡を作った。
・三角縁神獣鏡は陳是が日本で生み出した鏡である。
と想定しなければなりません。
陳是が日本にやってきて、三角縁神獣鏡を作ったということは、(1)の神原神社古墳から出土した景初三年銘三角縁神獣鏡の銘文からわかると考えています。
(銘文)
景初三年 陳是作鏡 自有経述 本是京師 杜地命出 吏人詺之 位至三公 母人詺之 保子宜孫 壽如金石兮
この銘文に陳是は自身の経歴を入れ込んでいます。吉祥句の前の文章がそれで、訳すと次のようになります。
(訳)
景初三年に陳是がこの鏡を作ったが、述べるべき経緯がある。もともとは帝都(洛陽)にいたが皇帝の命によりその地を閉じて出てきたのである。
※この銘文については多くの異なる解釈があります。
辺境の倭国に来た陳是が、三角縁神獣鏡を試作し、その銘文に自身の来歴を記したとみることができるのです。
このように、「景初四年」「三角縁神獣鏡」という視点から考えると、三角縁神獣鏡は「陳是が日本で卑弥呼のために作った鏡=卑弥呼の鏡である」という結論になるのです。
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