倭人伝をざっくり読んでもやっぱり邪馬台国は熊本!? | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

 私の邪馬台国熊本説の根幹をなすのは「魏志倭人伝後世書き換え説」です。

 『邪馬台国は熊本にあった!』を書いた時には「魏志倭人伝後世改ざん説」という名称にしていましたが、どうも「改ざん」という言葉が悪意のあるものというイメージが強く、説の内容にそぐわないものに思えてきました。

 そこで、YouTube動画を作成したのを機に、「書き換え説」に改めました。

 

 「魏志倭人伝後世書き換え説」はこのようなものです。

 

不彌国から投馬国経由で邪馬台国に至る行程が、陳寿が280年代に撰述した『三国志』魏志倭人伝では具体的な里数で書かれていた。

しかし、宋の時代、430年代に『後漢書』が登場すると、後漢書の誤認によって邪馬台国の観念的な位置が大きく南へ移動してしまった。

 そこで、その後の『三国志』写本の際に、両者の整合性をとるために、具体的な里数が抽象的な日数に書き換えられてしまった。

 

 その詳細な経緯は、以前に本ブログでも説明しました。

 今回は、もっとざっくり読んだ場合でも、邪馬台国は熊本になるのではないかというお話です。

 

 倭人伝の原史料は、魏の使い、帯方郡使の報告書だという説が有力です。具体的には240年に来倭した梯儁の一行が想定できますが、その報告書に倭人伝が引用した行程記事などが書かれていたと考えて考察をスタートします。

 

 前提条件は2つです。

 

〈前提1〉帯方郡使は方角を間違えない

 

 これは古代中国の天文学の知識があれば、まず間違えることはなかったと思います。

 これと関連して、当時の帯方郡使や魏の人は、そもそも倭地を南に長く延びた土地だと認識していたという説もあります。だから、不彌国から投馬国、投馬国から邪馬台国への「南」は東に読み換えなければならないというもので、畿内説の根拠ともされます。

 しかし、これもありえない話だと思います。

 梯儁たちは卑弥呼に金印紫綬や多くの下賜品を届け、卑弥呼から感謝の上表文を預かって帰ります。だから、邪馬台国まで足を運んだのは明らかです。

 すると、梯儁たちが本当に東へ向かって水行陸行したのであれば、報告書に「東」と書くはずです。絶対に「南」とは書きません。

 だから、梯儁一行は文字通り九州北岸から南へ水行陸行したのだと思います。

 

〈前提2〉虚偽の戸数は記さない

 

 魏志倭人伝は、行程記事とともに経由国の戸数を記しています。対馬国から邪馬台国まで、合計で15万余戸となっています。

 しかし、この戸数は実際のものではないという見解が大勢を占めています。その理由は、そこから想定される人口が多いことにあります。弥生時代後期頃の1戸あたりの人数は5人程度と考えられていますから、単純計算で人口は75万人となります。

 弥生時代の日本の人口についてはまだ流動的なようですが、歴史人口学の鬼頭宏氏の研究では59万人という数字が示されています。

 その半数が30国の連合体である女王国にいて、さらにその半数が対馬国から邪馬台国までの9か国にいたとしても、約15万人にしかなりません。

 

 しかし、一方で倭人伝の原史料が梯儁らの報告書だとすると、彼らが虚偽の報告をしたとは考えられないのです。

 梯儁一行には倭地の詳細な調査が命じられ、調査隊も同行していたと考えます。その調査項目には、倭地の地図作成とともに、国ごとの戸数・人口の調査も含まれ、優先順位の高いものだったと思われます。どこに、どれほどの人がいるかを知るのは、その地を攻撃する時に考慮すべき重要な要素となるからです。

 

 おそらく調査隊は山上の見晴らし台のようなところから目視で戸数を調べたと思います。そして、彼らが虚偽の報告をするとは考えられません。正しい数字を報告するのが彼らの使命だからです。

 だから、倭人伝の記す戸数の単位がどうだったかなどの問題はあるとしても、その数字は何らかの真実を含んでいると考えるのが妥当だと思います。それは特に、国の戸数の相対的な比率についてもです。

 つまり、伊都国や不彌国の1000を基準とすれば、奴国はその約20倍、投馬国は50倍、邪馬台国は70倍の規模だと目視で判断したのだと思います。

 

 以上の前提のもとで、奴国、投馬国、邪馬台国の位置関係と規模について考えます。

 

 まず、奴国です。

 伊都国が現在の糸島市というのはほぼ定説となっていて、その東南100里にある奴国は福岡平野のほぼ全域というのがこれも通説と言ってよいレベルの有力説となっています。

 

 倭人伝の行程記事では、この奴国にほぼ隣接している不彌国から南へ水行すると、5万余戸のさらなる大国である投馬国へ着きます。

 福岡平野の2万余戸を基準として考えると、5万余戸を収容できる場所はひとつしかありません。筑紫平野です。

 邪馬台国時代の筑紫平野は、まだ縄文海進の名残で、多くの部分が干潟だったと考えられています。 

 しかし、山麓を中心に多くの集落があったことは確かです。それらは拠点集落のネットワークを形成していたと思われます。それが私の考える投馬国です。

 倭地調査隊は筑紫平野全域を見渡して、50000余戸だと算定したのだと思います。ちなみに、梯儁一行が逗留した投馬国の拠点集落は、当時の筑後川河口にほど近い吉野ケ里遺跡だったと推測しています。

 

 いよいよ次は邪馬台国です。

 筑紫平野の吉野ケ里遺跡から南へ水行と陸行して70000余戸を想定できる場所です。

 これもひとつしかありません。熊本平野です。

 熊本平野は縄文海進の影響はほぼ受けていませんし、多少沼地もあったという説もありますが、70000余戸、福岡平野の3・5倍を引き受けるだけのキャパシティは十分にあったと思います。

 梯儁たちは投馬国の吉野ケ里遺跡から干潟沿いに南下して、現在のみやま市付近で上陸し、陸路、熊本平野を目指したのだと思います。

 そして、平野へ降りたところにあるのが、私が梯儁一行の最終目的地である邪馬台国の都だと考える方保田東原遺跡なのです。

 

このように、ざっくりと倭人伝の方角と国の規模を考えたとしても、

奴国=福岡平野

投馬国=筑紫平野

邪馬台国=熊本平野

つまり、邪馬台国は熊本にあったとしか考えられないと思っています。

 

 

 

 

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