初代天皇(山幸彦=神武天皇=崇神天皇):後半生/原日本紀の年代記〈2〉 | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

*「原日本紀の年代記」は本ブログで独自に紀年復元した年代観にもとづいています。

 

 今回は、初代天皇が日向(ひむか)から大和(やまと)へ東征を成し遂げ、橿原宮で即位された後についてみていきます。

 初代天皇の即位後の事績については、3年分が神武天皇の即位後の事績にまわされ、残りが崇神天皇の事績として記されていると考えています。そこで、暫定的にではありますが、神武天皇の3年分の事績は崇神天皇の即位翌年に挿入して紀年を復元しています。

 ここでいう初代天皇とは、山幸彦=神武天皇=崇神天皇のことです。

 

■橿原神宮

 

【301年《即位》:神武元年=崇神元年:52歳】

1月1日に橿原宮で即位される。前年に正妃としていた媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)=豊玉姫を皇后とする。

 

【302年:神武2年:53歳】

2月2日に東征の論功行賞を行う。道臣命(みちのおみのみこと)は築坂邑に宅地を、大来目(おおくめ)には畝傍山の西の川辺の地を賜った。珍彦(うずひこ)(椎根津彦(しいねつひこ))を倭国造とした。弟猾(おとうかし)に猛田邑を与え、弟磯城(おとしき)を磯城県主とした。剣根(つるぎね)を葛城国造とし、八咫烏(やたのからす)も賞の中に入った。

 

【303年:神武4年:54歳】

2月23日に詔して、わが皇祖の霊の助けにより天下を平定できたので、天神を祀りたいとおっしゃり、鳥見山(とみのやま)に祀りの場を設けて皇祖天神を祀った。

*この皇祖天神は高皇産霊尊だと考えられています。

 

【304年:神武31年:55歳】

4月1日に巡幸され、腋上の嗛間(ほほま)の丘から国の形をご覧になり、「美しい国を得たものだ。蜻蛉(あきつ)(とんぼ)が交尾しながら飛んでいるようだ」とおっしゃった。これが秋津洲(あきつしま)の名前の由来である。

 

【305年:崇神3年:56歳】

9月に、都を磯城の瑞籬宮(みずかきのみや)に遷す。

 

【306年:崇神4年:57歳】

冬10月23日、群卿百僚に皇祖の功績をたたえ共に天下を安んじようと詔する。

 

【307年:崇神5年:58歳】

国内に病が蔓延し、民の半数以上が死んだ。

 

【308年:崇神6年:59歳】

百姓(おおみたから)に流離・背反するものが多く徳をもって治めることができなかった。そこで朝夕天神地祇(あまつかみくにつかみ)に祈られた。

これより前に天照大神(あまてらすおおみかみ)と倭大国魂(やまとのおおくにたま)の二神を天皇の大殿に並べてお祀りしたが、その神の勢いを畏れて安らかに住むことができなかった。

そこで、天照大神を豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)に託して大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀った。また、日本大国魂神は渟名城入姫命(ぬなきいりびめのみこと)に託して祀らせたが、髪が落ち身体が痩せてお祀りすることができなかった。

 

【309年:崇神7年:60歳】

2月15日、天皇は災いの理由を知るために神浅茅原(かむあさじがはら)で八十万の神々を招いて占いをされた。まず、大物主神が倭迹迹日百襲姫命に神憑りして託宣し、天皇は教えのままに祀られたが験(しるし)がなかった。そこで再度お祈りされると、夢に大物主神が現れて「わが子の大田田根子(おおたたねこ)に祀らせたらたちどころに平らぎ、海外の国も自ら降伏するだろう」と告げた。

8月7日、三人が同じ夢を見て「一人の貴人が大田田根子命を大物主神を祀る祭主とし、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祀る祭主とすれば天下は平らぐと告げた」といった。天皇が大田田根子を探すと茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑で見つかったのでお連れした。大田田根子に誰の子かと聞くと、「父は大物主大神、母は活玉依姫といいます。陶津耳の女です」と答える。また、物部連の祖である伊香色雄(いかがしこお)を神班物者(かみのものあかつひと)(神に捧げる物をわかつ人)にしようと占うと吉と出た。

11月13日、伊香色雄に多くの平瓮(ひらか)を祭神の供物とさせ、大田田根子命を大物主大神を祀る祭主とし、長尾市を大国魂神を祀る祭主とすると、疫病は収まり国内は鎮まった。

 

【310年:崇神8年:61歳】

4月16日、高橋邑の活日(いくひ)を大物主神に奉る酒をつかさどる人とする。

12月20日、大田田根子に大物主神を祀らせ、活日は御酒を奉った。天皇は神の宮で宴を催され、歌を詠みあった。

 

【311年:崇神9年:62歳】

3月15日、天皇の夢に神があらわれて墨坂神と大坂神を祀るようにいわれた。天皇はその教えの通り、4月16日、赤の楯8枚と赤の矛8本で墨坂神を、黒の楯8枚と黒の矛8本で大坂神を祀られた。

 

【312年:崇神10年:63歳】

多くの卿(きみたち)に詔して、遠国の人々はまだ王化に預かっていないので、卿等を四方に遣わしてわが教化をひろめたいとおっしゃった。大彦命(おおびこのみこと)を北陸に、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海に、吉備津彦(きびつひこ)を西海に、丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)を丹波に遣わすこととし、印綬を授けて将軍とする。遠征の途中、大彦命は和珥(わに)の坂であやしい少女の歌を聞き、帰って天皇に報告する。そこから、武埴安彦(たけはにやすひこ)と妻の吾田媛(あたひめ)の謀反が発覚する。謀反は、五十狭芹彦命(いせりひこのみこと)(吉備津彦命)が吾田媛を討ち、大彦と彦国葺(ひこくにぶく)が埴安彦を討つことによって平定される。

こののち、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が大物主神の妻となるが、夫が麗しい小さな蛇であることに驚いたことから、陰部を箸で突いて亡くなってしまう。姫は太市に葬られ、人々はそれを箸墓と名付ける。

*この倭迹迹日百襲姫命と大物主の結婚譚は、「こののち」という接続詞で始まることから、文脈上は武埴安彦の叛乱後とされています。しかし、倭迹迹日百襲姫命が崇神天皇の「大叔母」とも「おば」とも記されますし、すでに大物主神は神となりその子の大田田根子の世代となっています。二人を実在の人物だと考えると、この結婚は崇神天皇(初代天皇)即位以前の神代の時代の出来事だったと考えられます。

10月22日、四道将軍が出発する。

 

【313年:崇神11年:64歳】

4月28日、四道将軍が各地を平定した様を報告した。

この年、異俗の人たちが多数やって来て国内が安らかになった。

 

【314年:崇神12年:65歳】

3月21日、「異俗の人々も来て、周囲の人も帰化した。そこで、戸口調査を行い、長幼の次第、課役の先後を知らせるべきである」と詔される。

9月16日、戸口を調べ課役を仰せ付けられた。これが男の弭調(ゆはずのみつき)、女の手末調(たなすえのみつき)である。これにより、百穀はよく実り、家々に人や物が足りるようになり、天下は平穏となる。そこで、天皇を誉めたたえて御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)(はじめて天下を治められた天皇の意)と言う。

 

【315年:崇神17年:66歳】

7月1日、詔して、「船は天下に必要なものである。いま海辺の民は船がないので、献上物を歩いて運ぶのに苦労している。国々に命じて船を造らせよ」といわれた。

10月、はじめて船を造った。

 

【316年:崇神48年:67歳】

1月10日、豊城命(とよきのみこと)、活目尊(いくめのみこと)のどちらを後嗣にするかを夢で占う。兄の豊城命は御諸山(三輪山)に登り東に向かって八度槍を突き、八度刀を振る夢を見、弟の活目尊は御諸山の頂上で縄を四方に張り、粟を食む雀を追い払う夢をみた。

4月19日、活目尊を皇太子とされ、豊城命には東国を治めさせた。

*この活目尊(後の垂仁天皇)の立太子については、垂仁天皇即位前期に、「崇神天皇29年生まれ」「24歳で皇太子」という二つの記事があります。崇神天皇29年に誕生とすると、この崇神天皇48年には20歳ということになり、24歳で皇太子となったという記事と整合しません。どちらが正しいか判断しようがありませんが、この実年代である316年に20歳と想定すると、誕生年は297年となります。前記事で触れた東征途中の吉備滞在中に誕生したとする仮説とは一致することになります。

 

【317年:崇神60年:68歳】

7月14日、出雲大神の宮にある武日照命(たけひなてるのみこと)が天から持ってきた神宝を見たいと言われた。武諸隅(たけもろすみ)(矢田部造の先祖)を遣わす。出雲臣の遠祖の出雲振根(いずものふるね)が管理していたが、その時は筑紫の国に行き不在であった。そこで、弟の飯入根(いいいりね)が弟の甘美韓日狭(うましからびさ)と子の鸕濡渟(うかずくぬ)に持たせて奉った。筑紫から帰った出雲振根は怒り、飯入根を殺してしまう。それを聞いた天皇は、吉備津彦と武渟河別を遣わせて出雲振根を誅殺してしまう。

 

【318年:崇神62年:69歳】

7月2日、詔をして「農は国の大いなる本である。河内の狭山の田は水が少ない。池や溝を掘って、民のなりわいをひろめよう」と言われた。

10月に依網池(よさみのいけ)を造った。

11月に苅坂池、反折池(さかおりのいけ)を造った。

 

【319年:崇神65年:70歳】

任那国が蘇那曷叱智(そなかしち)を遣わせて朝貢してきた。任那は筑紫を去ること二千余里のところにある。鶏林(しらき)(新羅)の西南にある。

 

【320年:崇神68年:71歳】

12月5日に、120歳で崩御される。翌年の8月11日に山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)に葬られる。

 

■崇神天皇陵(山辺道上陵)

 

 

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(参考文献)

坂本太郎ほか校注『日本書紀(一)』岩波文庫

宇治谷孟著『日本書紀(上)全現代語訳』講談社学術文庫

 

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