百舌鳥・古市古墳群の被葬者を考える〈6〉古墳群の幕開けを告げる津堂城山古墳は誰の陵? | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

 少し期間があきましたが、今回からは仁徳天皇以前の天皇の御陵について考えていきたいと思います。

 改めて古墳の築造年代と歴代天皇の崩御年を掲載(図表1)して、考察を始めたいと思います。

 ただし、百舌鳥・古市古墳群の主だった古墳は宮内庁から陵墓に治定されていたり、陵墓参考地として管理されていて、詳細な調査が行えません。そこで、考古学者の方々の中でも確かな年代観が固まっていないのが現状のようです。ですから、下記の古墳編年はあくまでも私見です。また、右に併記した歴代天皇の治世と崩御年は、私の作成した「原日本紀年表」から考察を進めて、仁徳天皇(倭王「済」)の治世といわれる時期に倭王「讃」「珍」の治世を想定し追加したものです。

 

■図表1 古墳築造年と歴代天皇の崩御年(筆者の見解による)

 

 百舌鳥・古市古墳群で最初期にできた大型前方後円墳は、乳岡古墳(ちのおかこふん)と長山古墳(ながやまこふん)だと考えられています。乳岡古墳は墳丘長155メートル、長山古墳は墳丘長110メートルで、4世紀後半に前後して築かれたようです。奈良盆地内の佐紀盾列古墳群(さきたたなみこふんぐん)で、第13代成務天皇陵とされる石塚山古墳(墳丘長218メートル)が築かれるのと近い時代だと思われます。

 

 乳岡古墳と長山古墳は、当時の海岸線沿いに南北して築造されています。海側からの景観を意識したのか、西の方向を意識したのか、いずれにしても瀬戸内海航路との関連性は明らかだと考えられます。

 しかし、両古墳の被葬者について『日本書紀』の中から具体的な人物を捜すことはできません。しいていえば、全部で80人もおられたという景行天皇(けいこうてんのう)の御子の誰かということになるでしょうか。

 

 さて、乳岡古墳、長山古墳も十分大きいのですが、百舌鳥・古市古墳群にあらわれた最初の巨大前方後円墳とされているのが津堂城山古墳(つどうしろやまこふん)です。4世紀後半から末葉にかけて築造された墳丘長208メートルの古墳です。

 長持型石棺や豊富な副葬品が出土していますが、天皇陵に治定されているわけではなく、「藤井寺陵墓参考地(被葬候補者:允恭天皇(いんぎょうてんのう))」として指定されている状況です。もちろん、允恭天皇は5世紀後半の天皇と考えられているので、津堂城山古墳が允恭天皇の陵でないことは明らかです。

 

 私は、この古墳の被葬者には仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)を想定したいと思います。

 第14代仲哀天皇は日本武尊(やまとたけるのみこと)(景行天皇(けいこうてんのう)の子)の皇子であり、第13代成務天皇(同じく景行天皇の子)の甥です。私の場合、景行天皇と日本武尊の兄弟説をとっていますので、成務天皇の従兄弟(いとこ)ということになります。

 

 成務天皇に皇子がいなかったので仲哀天皇が皇位を継承されます。

 そして、『日本書紀』では、天皇は治世9年に九州の地で崩御され、その後神功皇后の69年におよぶ摂政期間があったと記されます。

 しかし、私は以前に「原日本紀の復元040 神功皇后〈1〉巧妙に設定された神功皇后紀」以下でも考察したように、神功皇后は創作上の女帝でありその摂政期間は仲哀天皇の治世であったと考えています。そして、復元した仲哀天皇の治世は仲哀天皇は375年〜395年となります。津堂城山古墳の築造年代と重なってきます。

 

 『日本書紀』の記事では、仲哀天皇は河内国長野陵(かわちのくにのながののみささぎ)に葬られたとされ、宮内庁からは岡ミサンザイ古墳が御陵に治定(じじょう)されています。しかし、岡ミサンザイ古墳は古市古墳群にありますが、築造年代は5世紀末葉あたりを想定されています。明らかに仲哀天皇陵ではありません(前記事で雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の陵と推定しました)。

 

 仲哀天皇は、『日本書紀』で不思議なことに、なぜか男装して三韓征伐した神功皇后」の本来の姿だと考えています。熊襲討征や三韓征伐など、瀬戸内海を通じた九州や朝鮮半島との交渉が多かった仲哀天皇が、河内に巨大古墳を築造されることは何ら不思議ではなく、時期的にも津堂城山古墳の被葬者と推定してよいのではないでしょうか。

 

●津堂城山古墳:仲哀天皇陵(日本書紀で「河内国長野陵」)

墳丘長208メートル/後円部の径約128メートル・高さ約17メートル/前方部の幅約121メートル・高さ約13メートル/3段築成で2重濠を持ち、くびれ部両側に造り出しがある

 

 

全長348センチメートルの巨大な長持形石棺が発見されています。

(写真はガイダンス棟「まほらしろやま」に展示されているレプリカ)

 

 

竪穴式石槨(たてあなしきせっかく)の天井石。

兵庫県高砂山の竜山石で作られていました。

 

 津堂城山古墳の前方部内濠には方形の島状遺構があり、3体の水鳥形埴輪が見つかっています。もし、ここに眠られているのが仲哀天皇であれば、その父日本武尊の白鳥伝説が思い起こされます。日本武尊が遠征先で没した後、白鳥となって大和や河内に戻ってきたという伝説です。父の偉業をたたえ、伝え残すために設けられたのでしょうか。

 また、実際に毎年白鳥が飛来していたかもしれないと考えると、当時の美しい光景が思い浮かびます。もちろん、4世紀末までに日本武尊の英雄譚ができあがっていたらの話です。(つづく)

 

 

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