原日本紀の復元056 白鳥をシンボルとする二人 日本武尊と誉津別命 | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

 大きく紀年延長された古代天皇の治世を原日本紀年表で短縮すると、かなり現実的な年代観を構築することができました。

 

 しかし、垂仁天皇(すいにんてんのう)から景行天皇(けいこうてんのう)、成務天皇(せいむてんのう)、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)までの治世を考えるうえで、整合性をとっておかないといけない人物が二人います。武内宿禰(たけのうちのすくね)と日本武尊(やまとたけるのみこと)です。『日本書紀』では武内宿禰は300歳におよぶような長寿の人として描かれる一方、日本武尊は30歳で崩御されるように対照的な二人ですが、どちらも天皇ではないにも関わらず、目覚ましい活躍をした英雄として描かれています。

 武内宿禰についてはすでに検証しましたので、今回は日本武尊について考えてみたいと思います。

 

 日本武尊は、現在の九州南部にいた熊襲(くまそ)と、東国の蝦夷(えみし)を征討した超人的な英雄として『日本書紀』に描かれています。

 

 まず、熊襲征討は景行天皇27年条に記されています。

 熊襲については、それ以前に景行天皇が長期におよぶ遠征で討伐されています。ですから、ヤマト王権としては再度の遠征ということになります。

 日本武尊は12月に熊襲の国に着き、宴席に童女の変装で紛れ込み、熊襲の首長である川上梟帥(かわかみのたける)を剣で刺し殺してしまいます。この時に、亡くなる前の川上梟帥から「日本武皇子(やまとたけるのみこ)」という尊号を奉られ、それが「日本武尊」という名の由縁であるという逸話も記されています。

 この熊襲征討および西国の平定については、翌28年、景行天皇に報告してめでたく完了します。

 

 しかし、景行天皇40年に、今度は東国で蝦夷が騒動を起こします。天皇は誰を送るべきかを群臣に諮ります。日本武尊は「私は西征で疲れているので、その役目は兄の大碓皇子(おおうすのみこ)がよい」と進言しますが、大碓皇子は逃げ隠れしてしまいます。

 そこで、また日本武尊が東征の役を任されることになります。日本武尊は伊勢神宮で倭姫命(やまとひめのみこと)から草薙剣(くさなぎのつるぎ)を授かり、遠大な東国征討へ向かいます。

 詳細は省きますが、日本武尊は駿河(するが)、相模(さがみ)、上総(かみふさ)、陸奥国(みちのくのくに)、日高見国(ひたかみのくに)、常陸(ひたち)、甲斐国(かいのくに)、武蔵(むさし)、上野(かみつけ)、信濃(しなの)を巡り、それぞれを平定して尾張(おわり)に戻ります。

 東国平定という壮大な使命を果たしながら、日本武尊は近江の五十葺山(いぶきやま)の荒ぶる神の退治におもむき、その結果病にかかり命を落としてしまいます。それは、景行天皇43年のことであり、亡くなった場所は伊勢の能褒野(のぼの)で、年齢は30歳だったとされます。

 

 日本武尊は景行天皇の第二子とされています。双子の兄は大碓命です。

 しかしながら、前記事の考察で、原日本紀年表にしたがえば318年生まれの景行天皇に対して、日本武尊は329年生まれとなり、二人の親子関係は成立しないと結論づけました。すると、日本武尊は誰の子なのでしょう。

 

 実はこれとよく似た現象は以前にもありました。応神天皇と仁徳天皇の関係です。『日本書紀』では、応神天皇と仁徳天皇は父子関係とされていましたが、それは69年間におよぶ神功皇后紀を挿入することによる弊害として生じたものだと推論しました。そして、実際は兄弟だったのではないかという結論に至りました。

 垂仁天皇、景行天皇、成務天皇の治世も大幅に紀年延長されています。その過程で同様のことが起きていたとしたら、景行天皇と日本武尊は兄弟だったのではないかという仮説を検証してみる価値はあります。

 

 それを念頭に原日本紀年表をたどってみると、また一つ不思議なことに気がつくのです。

 ここで新たに登場する人物は、垂仁天皇の子である誉津別命(ほむつわけのみこと)です。

 誉津別命は、垂仁天皇とその最初の皇后である狭穂姫命(さほひめのみこと)との間に生まれた皇子です。そして、誉津別命に関する記事は、垂仁天皇紀に2回にわたってみられます。

 

 まず最初は、狭穂姫命の兄である狭穂彦王(さほひこのみこ)による叛乱の物語です。垂仁天皇4年から5年にかけて起きたことになっています。

 狭穂彦王は実の妹の狭穂姫命に垂仁天皇を暗殺させ、皇位を奪い取ろうと画策します。しかし、狭穂姫命はそれを実行することができず、狭穂彦王の企みは露見してしまいます。

 そして、垂仁天皇は八綱田(やつなだ)に狭穂彦王の討伐を命じます。狭穂彦王は稲城(いなき)(稲を積み上げた城)を作って応戦し、皇后の狭穂姫命も誉津別命を抱いてその城に入ります。

 天皇は城を囲み、皇后と皇子を城から出すように言いますが、狭穂彦王は説得に応じません。そこで、八綱田は城に火を放ちます。死を覚悟した狭穂姫命は、いったん城の外に出て来て誉津別命を返したのち、再び燃える城に戻って狭穂彦王とともに焼け死んでしまいます。

 このようにして、誉津別命は母を失いながら命を長らえることになります。

 

 誉津別命に関するもう一つの記事は、垂仁天皇23年条にあります。

 この年、誉津別命は30歳になっていたとされますが、子どものように泣いて、まだ言葉を話すことがありませんでした。

 10月、天皇と誉津別命が宮殿の前におられたとき、鵠(くぐい)が空を飛んでいました。すると、それをみた誉津別命が突然「これは何?」と言われたのです。

 喜んだ天皇は、「誰かこの鳥を捕まえてきてくれ」といわれます。そこで、天湯河板擧(あめのゆかわたな)が追いかけ、ついに出雲で捕らえて天皇に献上します。

 誉津別命はこの鵠によりついに話せるようになります。天皇は天湯河板擧に姓を与えて鳥取造(ととりのみやつこ)とし、また鳥取部(ととりべ)、鳥養部(とりかいべ)、誉津部(ほむつべ)を定められたという物語です。

 

 ここで注目したいのは、23年条に登場して誉津別命が話せるようになるきっかけとなった鵠という鳥です。この鵠は白鳥のことです。

 そして、白鳥といえばもう一人、白鳥をシンボルとしている人物がいます。それが、日本武尊です。

 

 

 日本武尊の白鳥にまつわる物語は、先に述べた東国征討ののちに崩御された場面から始まります。

 

 日本武尊の死を知った景行天皇は嘆き悲しみますが、すぐに群卿(群臣)に詔して、伊勢国の能褒野陵(のぼののみささぎ)に葬るように命じます。

 しかし、日本武尊は能褒野陵に葬られたのち、白鳥となって陵を出て、倭国(やまとのくに)を目指して飛んでいきます。そこで、使者に白鳥を追わせると、倭の琴弾原(ことひきのはら)にとどまります。それで、そこにも陵を造ります。白鳥はさらに飛んで河内に行き、古市邑(ふるいちのむら)にとどまります。さらにそこにも陵を造ります。

 当時の人が、この3つの陵を白鳥陵(しらとりのみささぎ)と名付けたという記述もみられます。

 しかし、最終的に白鳥は天上に飛んでいってしまいます。だから、代わりに衣冠を葬り、功名を後世に伝えるために武部(たけるべ)を定めたと『日本書紀』は記しています。

 

 この二人、日本武尊と誉津別命が、328年という年で結びついてくるのです。(続く)

 

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総合オピニオンサイト「iRONNA」に論文が掲載されました。

邪馬台国畿内説批判と熊本説の妥当性についてまとめた小論です。

タイトルは〈「邪馬台国は熊本にあった」魏の使者のルートが示す決定的根拠〉です。

こちらもぜひお読みください。

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