邪馬台国に行ってきました!〈熊本行1〉 | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

 ついに、念願の邪馬台国へ行くことができました。

 「熊本へ行かずに熊本説の本を書いたんですか?」とか、「熊本説だったら早く熊本へ行って邪馬台国を発掘したら?」など、様々なひやかしのお言葉をいただいておりましたが、やっと行ってまいりました。

 平成29年5月、邪馬台国=熊本平野は夏を思わせる暑いほどの好天で迎えてくれました。

 人生二度目の熊本。初回、数十年前に高校の修学旅行で訪れたときはここが邪馬台国だなどとは思いもしなかったので、「ついに来た!」という感慨もひとしおでした。

 

 今回の熊本行における大きな目的は二つありました。(1)方保田東原遺跡の見学と、(2)卑弥呼の墓が作られたと思われる場所を探すこと。

 まずは、(1)の方保田東原遺跡です。

 

 

 私が「魏志倭人伝」において郡使の最終目的地である邪馬台国の基準点(到着地点)であったと考える拠点集落です。

 方保田東原遺跡は菊池川と方保田川の合流地点にできた舌状の台地にあります。幅8メートルにおよぶ南北方向の大溝も発見されていて、それは菊池川と方保田川につながっていたと考えられます。つまり、河川と大溝で囲われた大環濠集落だったのです。

 

◆方保田東原遺跡(山鹿市出土文化財管理センターの模型より) 

 

 発掘面積はまだ10%にも満たないと言われていますが、どの地点も非常に埋蔵物の密度が濃く、大量の遺物が見つかっています。珍しい出土物も多く、家形土器、巴形銅器、石包丁形鉄器などは全国的にみても貴重なものです。

 また、大量に出土する土器の中には、出雲、瀬戸内、畿内で作られたと思われる土器も含まれていて、広範で活発な交流があったことを示唆しています。邪馬台国時代の方保田東原遺跡では、多くの人々が当時の日本で最高かつ最先端レベルの生活を営んでいたと考えられるのです。

 今回、実際に出土文化財管理センターで発掘された出土物や発掘時の写真展示などを見たり、センターに隣接して設けられた遺跡公園に立ってみて、私は方保田東原遺跡が邪馬台国の拠点集落の一つであるという確信を強くしました。

 しかし、遺跡自体の年代は卑弥呼の時代、邪馬台国の時代としつつも、展示物などの説明には「ここが邪馬台国であったかも?」というような文言は見当たりません。また、熊本行の直接のきっかけとなった「菊池川流域古代史サミット」に来場されていた方も、多くは「熊本は狗奴国」とお考えのように思われました。

 やはり、従来から根強く語られてきた説が影響しているようです。狗奴国の官である狗古智卑狗を「クコチヒク」「ククチヒク」と読み、それは「菊池彦」や後世の肥後国菊池郡に通じるとして、狗奴国を現在の菊池市がある熊本平野に比定するというものです。

 私としては、熊本において邪馬台国熊本説がもっと注目を集める日が来ることを願うばかりです。

 

 山鹿市民交流センターで開催された「菊池川流域古代史サミット」は多くの参加者で活況を呈していました。多少年齢層は高めでしたが、若い方もちらほら見受けられました。若い方にも、もっともっと日本の国の成り立ちに関心を持ってほしいですし、小さいころから古代史に興味を持つ人が増えてほしいと思います。

 その会場にお邪魔して、拙著『邪馬台国は熊本にあった!』を販売いたしました。講演された先生に最新の説として拙論をご紹介いただいたおかげで、予想外の売れ行き。ご購入いただきましたみなさま、ありがとうございました!

 (2)の卑弥呼の墓については、近いうちにまとめたいと思っています。

 

 ところで、熊本にいる間に数回、テレビやラジオで地震速報が流れていました。道路もいたるところで寸断されたままでしたし、一年以上経ってもまだ震災の傷跡が残っているのを実感しました。一日も早い復興を祈っています。

 

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拙著『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)