今回は、総集編として、倭建命とその周りの方の顔ぶれと、神武への系譜年表を、表に再整理し、倭建命のその後の足跡と、子孫について辿ってみたいと思います。
前回お話したように、「当芸志美美命」とは、実は「邇邇芸命」だったということなのですが、それと共に重ね合わされた倭建命自身も指し、「当」→的中する曙立王の行動と、多くの自己犠牲を強いられた「志」ある邇邇「芸」の「美」談を倭建命自らが返り討ちにしたことを物語っているのかも知れません。
ただし、古事記では神武天皇記に当芸志美美命として、日本書紀では綏靖天皇記に手研耳命として記されています。
古事記の上巻と中巻の対応法則や、神話と天皇記の違いによる重ね合わせ、古事記に挿入された歌が暗示する内容などを踏まえて表にまとめると、倭建命とは、宇摩志阿斯訶備比古遅神=建御名方神=(邇邇芸命)=神沼河耳命=弟磯城=建沼河別命=小碓命=建内宿禰=讃岐垂根王(倭の五王の讃 → 子孫が大雀命=仁徳天皇)=伊声耆 という実像が朧気ながら浮かび上がって来ました。
倭建命とその周りの顔ぶれを整理
魏志倭人伝では、帯方郡への使節として伊声耆と掖邪狗が登場しますが、最後に派遣された台与からの使節として、掖邪狗の名が記されています。
これらの情報を元に倭建命のその後の足跡を辿ってみるならば、小生の希望的観測(真実とは限らず創造も含む)も込めて、以下に記します。
神武への系譜年表
韓国歴史地図(新羅)より
邪馬台国のFAQ「倭と朝鮮半島とのつながりは?⑥新羅(斯盧国)建国」にあるとおり、その頃朝鮮半島では、倭と馬韓がついに帯方郡に属し、馬韓の影響力が削がれて、その配下にあった辰韓が244年頃独立して新羅(斯盧国)が建国されます。
狗邪韓国に影響力を持っていた須佐之男命=八重事代主神は、当芸志美美命を討った後、出雲国を畳むと、斯盧国(白国)立ち上げに関わり、初代王もしくはその後援者として、朝鮮半島に留まることになります。
残された倭建命は、事代主→言白主である須佐之男命の意志を継いで、建比良鳥命として辺津宮の神屋楯比賣命の援助を得て、出雲大社(旧杵築大社や元出雲の出雲大神宮なども含めた初代の出雲大社を意味する)を創建し、伊勢神宮の創建にも関わり、愛媛県今治市の大三島の大山祗神社、讃岐垂根王として讃岐の金刀比羅宮など、各地の大国主命・大山津見神、大物主(八重事代主神)を祭神とする神社の創祀に関わり、託宣の旅を続けることになります。
そして、大毘古命=大国主命の辿った平定の旅に思いを馳せ、その落ち合う終わりの地:尾張の相津を拠点に、建内宿禰として天照大御神亡き後、仲哀天皇や神功皇后などの相談役を、味師内宿禰と共に務めるのだと思われます。
小碓命=倭建命=建内宿禰と、大碓命=天火明命=味師内宿禰は、双子とされており、大入杵命=大国主命を共通の父に持つ、杵(きね)と碓(うす)の関係だったのかも知れません。
味師内宿禰は、箸墓古墳や石上神宮をはじめ、神事を執り行う神社の守り主として関西方面を中心に活動したと考えられます。
倭建命等は、讃岐垂根王と猿田毘古神として、宮崎県の西都原古墳群辺りの狭穂から「狭(さ)」を抜いて、穂臣として愛知県の尾張三河の地に移ると、八重事代主神に重ね合わされた倭建命は遠征で慣れ親しんだ東国を治め、たたら製鉄の産地柏崎の三島溝咋の女 勢夜陀多良比賣(志理都紀斗賣→尻突き乙女)と結ばれ、品陀真若王とその娘伊須気余理比賣が生まれ、その後伊須気余理比賣は応神天皇(神武天皇と応神天皇は重ね合わされている)の后となるのです。
そして、感銘を受けた駿河の富士山(弟橘比賣命と木花佐久夜毘賣の美しさと故郷の宮崎県日南市富土の地名に因んで命名)を仰いで富士山本宮浅間大社を創建し、天照大御神他の巫女に纏わるかぐや姫伝承、風光明媚な三保の松原に事代主神として縁の深い出雲の美保関の地名と、丹後の天女の伝承などを残します。
また、建沼河別命という名のとおり沼津と富士川および狩野川に程近い富士山の麓(昔は近くまで海が迫っていて船での移動が容易な地だった)を終の棲家とし、三島溝咋の女 勢夜陀多良比賣に因んで、三嶋大社として大三島の大山祗神社などから父親である大山津見神=大国主命と須佐之男命=八重事代主神を勧請し、沼津の高尾山古墳に眠るのです。
その後、そこから浅間大社を望む同じ富士山麓の地に、弟橘比賣命と木花佐久夜毘賣を偲んで浅間古墳が建てられたのかも知れません。
では、今回で「神武への系譜 訂正版」のシリーズを終わりにしたいと思います。
長い間、お付き合いいただきありがとうございました。





