神武への系譜 訂正版⑦ | 邪馬台国の道標(みちしるべ)

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今回は、倭建命の東征の後編として、最後に記された伊吹山での崩御について触れたいと思います。

倭建命の東征とは、実は邇邇芸命と倭建命のお二人での東国平定の旅でした。

それなのに、尾張(終わり)に戻った後、今度は太刀を美夜受比賣の所に置いて、伊吹山に向かうのです。

つまり、もう平定の旅は終わっているので、今度は別の場面ということになります。

 

そのくだりを原文で見ると、 「爾 」という文字を、単に「爾(なんじ・その)など」の二人称代名詞と、「爾支」という固有名詞の省略形とで使い分けているように思われます。

さらに、「詔(みことのり)」、「倭建命」などの言葉から、以下の通り、いずれの発言か多少は想定できます。

 

途中で白い猪(大きくて牛の如くあり)が登場し、邇邇芸命は「それは神の使者だから殺さずに帰りに殺そう」と言います。

倭建命は氷雨に打たれて惑い、「白い猪は使者ではなくて、神そのものです」と言って見惑います。

そこで、帰り下り清泉(清水長泉)まで来たところで、心が冷(寤)めました。

そこから当芸野に至った時、「わが心は虚しくなって、足が進まず、当芸当芸しくなった」と詔(みことのり)を命ずる者(邇邇芸命)が言われた。

そして、あの辞世の句 (1) 「大和は 国のまほろば ・・・」 などを詠んだのです。

 

その場所は、「能煩野(のぼの)」で、「煩」という漢字の付く地名を探すと、福島県の会津若松市の近くに、「煩窪」と「鬼ヶ煩」が見つかりました。

以上を踏まえて推論すると、白・猪・牛・氷雨から、白い猪=須佐之男命が連想されます。

また、「寤(さめ)」→日子寤間命→孝霊天皇記に若日子建吉備日子命と共に記されているので邇邇芸命を指しているのかも知れません。

そして、相津→会津若松は、表向きには四道将軍の大毘古命と建沼河別命が出会う場所でもあります。

それは、神話と天皇記の違いにより変換すると、大毘古命=大国主命→日子布都押之信命と建沼河別命が出会う場所となります。

邇邇芸命は、若松の時とは違い、囚われの身となり、押さえつけられて、虚しくやる気を無くして、当芸を披露するしかなくなったのかも知れません。

最後に、邇邇芸命が美夜受比賣の所に置いて来た太刀の歌を詠って亡くなります。

美夜受比賣とは宮津姫であり、元伊勢と呼ばれる京都府宮津市の籠(この)神社にゆかりのある神功皇后ではないかと思われます。

 

<原文>

故 『爾』 御合而、以其御刀之草那藝劒、置其美夜受比賣之許而、取伊服岐能山之神幸行。 ←「爾」が主語なので爾支

於是詔「茲山神者、徒手直取。」而、騰其山之時、白猪、逢于山邊、其大如牛。

『爾』 爲言擧而詔「是化白猪者、其神之使者。雖今不殺、還時將殺。」而騰坐。 ←詔により爾支

於是、零大氷雨打惑 『倭建命』 。此化白猪者、非其神之使者、當其神之正身。因言擧、見惑也。 ←倭建命との記述により倭建命

故還下坐之、到玉倉部之淸泉、以息坐之時、御心稍寤、故號其淸泉、謂居寤淸泉也。

自其處發、到當藝野上之時、詔者「吾心恒念、自虛翔行。然今吾足不得步、成當藝當藝斯玖。」故號其地謂當藝也。 ←詔により爾支

自其地、差少幸行、因甚疲衝、御杖稍步、故號其地謂杖衝坂也。

到坐尾津前一松之許、先御食之時、所忘其地御刀不失猶有、『爾』御歌曰、「袁波理邇 多陀邇牟迦幣流 袁都能佐岐那流 比登都麻都 阿勢袁 比登都麻都 比登邇阿理勢婆 多知波氣麻斯袁 岐奴岐勢麻斯袁 比登都麻都 阿勢袁」  ←「爾」が主語なので爾支

自其地幸、到三重村之時、亦詔之「吾足、如三重勾而甚疲。」故、號其地謂三重。

自其幸行而、到能煩野之時、思國以歌曰、「夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯」 ・・・(1)

又歌曰、「伊能知能 麻多祁牟比登波 多多美許母 幣具理能夜麻能 久麻加志賀波袁 宇受爾佐勢 曾能古」 ・・・ (2)

此歌者、思國歌也。又歌曰、「波斯祁夜斯 和岐幣能迦多用 久毛韋多知久母」

此者片歌也。此時御病甚急、『爾』 御歌曰、 「袁登賣能 登許能辨爾 和賀淤岐斯 都流岐能多知 曾能多知波夜」 ←爾が主語なので爾支

歌竟卽崩。爾貢上驛使。

 

前述の伊吹山のくだりは、上記のとおり、原文では「取伊服岐能山之神幸行」であり、伊服岐能山之神→意富岐神→大岐神→宗像大島の神(中津宮) →須佐之男命を指しているように思われます。

当芸志美美命は、宗像三女神の航路も掌握し、そこから生み出される富を得ようと、須佐之男命を襲いに行ったのかも知れません。

そんな状況に付き合わされながら、恐れを抱くようになった倭建命は、母である沼河比賣命(神武天皇記の伊須気余理比賣)の歌に込められた思いに確信を深めて、遂に当芸志美美命を討ち、出雲国を畳むことを決意したのではないでしょうか。

 

 

須勢理毘賣命(→天照大御神)の嫉妬のくだりで、大国主命(→倭建命)が倭国に出陣する際に詠った歌と、東征の帰りに至った足柄の坂本で出会った白鹿を討って「吾妻はや」と嘆かれたくだりをさらに深堀りすると、そのときの当芸志美美命を返り討ちにした状況が垣間見えてきます。

 

<意訳と原文>

沼河比賣命の翡翠の黒き御衣を纏う圓野比賣命の夫である伊都国の爾支は、鳥(建御名方神)を装い沖津宮を取りに、そして、宗像の辺津宮が見えてくると、秦氏も多く参入しているので、これはまずい。爾支が辺津宮に来たらその時討て。

奴婆多麻能 久路岐美祁斯遠 麻都夫佐爾 登理與曾比 淤岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許禮婆布佐波受 幣都那美 曾邇奴岐宇弖

 

その坂の神が白鹿に化けて現れたので、食い残した蒜(ひる)の片端を持って待ち討ち、「我妻や」と嘆かれた → 日本書紀の景行天皇記によると、景行天皇は崩御される直前の3年間、志賀の地に住まわれている → 邇邇芸命が天孫降臨して出雲国に3年在位した場所が志賀(しが)≒鹿(しか)で、宍道湖の西に出雲市斐川町原鹿という地名と大山の南東に蒜山(ひるぜん)という山あり → 弟橘比賣命の弔いとして邇邇芸命は蒜山辺りの黄泉比良坂の麓にて討たれた

到足柄之坂本、於食御粮處、其坂神、化白鹿而來立。爾卽以其咋遺之蒜片端、待打者、中其目乃打殺也。故、登立其坂、三歎詔云「阿豆麻波夜。」故、號其國謂阿豆麻也。

 

さらに、能煩野の歌の中でも、(2) の歌は興味深いので、意訳してみます。

「命の全けむ人は(命ある人は) 畳み子も(出雲を畳む子も) 平群の山の(須佐之男命の本拠地:福岡市西区辺りの平群地区の山の) 熊白檮が葉を(熊 → 須佐之男命=事代主神の言の葉を) 宇豆に挿せ(宇豆比古=大国主大神に捧げよ) その子(命ある子よ)」

 

垂仁天皇記に記された曙立王も、鷺と共に甜白檮の先にある葉広熊白檮を誓(うけ)い枯らし、誓(うけ)い生かすという技を披露しています。

白檮(シラカシ)の実も柏(カシワ)の実もドングリで、伊邪那美神=蠅伊呂杼の「杼」 は機織りの横糸を通す道具の他にドングリという意味があります。

伊邪那美神の愛の結実として成った須佐之男命が、柏手を打ち託宣を授かる事代主神と重なってきます。

そして、その事代主神=菟上王を生かすも殺すも、運命共同体としての曙立王なる倭建命の手の中にあるということではないでしょうか。

 

つまり、須佐之男命率いる狗奴国軍(神武軍)が出雲国を攻め、キャスティングボートを握る倭建命=弟磯城は須佐之男命側に立ったので、邇邇芸命率いる出雲国は敗退したが、その後に神功皇后率いる秦氏の大倭軍が今度は狗奴国を討つことになるのかも知れません。

 

丸腰で伊吹山に出かけた当芸志美美命が、河から上がって刀身の無い太刀を持って、倭建命に討たれる出雲建と重なって見えてきます。

それでは、今回はこの辺で終わりにして、次回に倭建命のその後の足跡と、子孫について辿ってみたいと思います。