何かを書きたいと思えたのは、さっきの事。

こうして、スマホの画面を眺めて親指を動かしていると、何を書きたかったかなんて4割も覚えてなくて、書きたいと思っていた気持ちにも自信がなくなってくる。

感情が一期一会なら、言葉もまたそれにあたるんだろう。誰かの言葉もそうだけど、それを受けて自分の中に反響して出てくる言葉は本当に止めどもない。

歌を作ってる時も、かつて出会った素敵な言葉を歌詞にしたいと想っても、想いだけが抜け殻となって思い出されるという事をいくつも経験する度に、ちゃんとメモを取ろうと約束するのだけど、こんな内容のブログを書いてしまっているのが現状だ。

ただ、自分の中に次から次へと溢れ出し展開されていく言葉たちを、追いかけている時間はとても満たされている。これが「夢中になる」って事に一番近いのだと思う。

そんな時は、微塵もメモを取ろうなんて思ってないし、その重要性はとても低い。ただただ、次に来る言葉に集中し、その言葉が内側に反響してまた次の言葉が出てくる。加えて外の世界で目にしたものや耳にしたものがそこに加わり、普通ならカオスな状態なはずだが、その時は不思議と順番も内容も全部一貫性が保たれていて、まるでDJがいろんな曲を上手に繋いでいくような巧みさを思わせる。それでいて落ち着いていて、どんな内容でも感情が高ぶることなく淡々とした波長で続いていく。時折、ハッとする気付きも生まれたりするが次の瞬間には別の言葉への繋ぎ役でしかなかった事に気がつく。そして、その時にはもう埋もれてしまっている。そんな言葉たちが過去にはたくさんある。

よくよく思うとそれは、人を気にするという性質がそんな事をさせている気がしている。周りの目を気にするあまり、余計な言葉が必要となって、それを納得のいく表現へと昇華したい欲求が苦悩させ、迷わせ、動きを縛り、この人生を小難しいものとする。でも、いつも自分の心が満たされる歌や、言葉と出会うのはいつもそれらの柵を超えた先にあった。

だからきっと、苦悩も迷いも苦しみさえも必要な事なのだと思える。ある意味でこれら全てを網羅したようなものが幸せなのかも知れないと、ふと思う事がある。ぐちゃぐちゃに入り組んだ柵が、次の瞬間綺麗な繋がりとなって素敵な模様を浮かび上がらせる、"仕組まれた糸"。
全ては結びによって作り上げられた作品。誰が意図したのか。自分自身がそうしたのか、分からない時に人は神の存在を近くに感じるのではないかな。それはまさに仕組まれたが糸が結び合う。『仕合せ』

何かを書きたいと思ったのはさっきの事。次の瞬間には忘れていて、何を書きたいのかも分からなくなってしまう。でも、そんな時はいっその事忘れてしまい、次の仕合せへと集中する。そうする事で、結ばれるのだと信じる。記憶とは忘れる事はあっても消える事はないという。ならばその奥底で忘れ去られた言葉が結ばれ、今の苦悩に光を当てるなら、幸せとはまさしく、意図されているのだと、そう思う。






____________あさの光が包み込む、闇の中で__