光村 4年上 話す言葉は同じでも | 小学校非常勤講師のブログ

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退職して非常勤講師をすることにしました。毎日があわただしく過ぎ去っていくので、日々の記録を書いていきます。学校名は伏せておきます。似たような学校、似たような先生がいたとしても、たまたま似ているだけですので気になさらないでください。

 光村4年上の教材、話す言葉は同じでもについて

 先日、この教材についての授業報告・教材研究の会があり、それに参加してきました。ここでは、その会で話されたことを元に私の考えを書きます。

 一番印象に残った言葉は、参加者の中の大学の先生が仰った言葉で、「(1)のシチュエーションは学校ではありえない」ということです。
 言われるまで、気づきませんでした。
 教科書には「今日、はじめて二十五メートル泳げたよ。」というひとみさんの言葉があります。これは誰が泳げたのか書いていません。
 ひとみさんが泳げたのだとすると、
 たかしくんは何故ひとみさんが泳げたのかを知らないのかという問題が発生します。たかしくんが別の学年で・・・と考えると知らないことは解決するのですが、「泳げたよ」という言葉遣いの問題が発生します。ひとみさんとたかしくんは同学年のようです。
 プールはクラス毎、別々に入るのだろうかという問題があります。プールの安全確保のためには、複数の教員でプール指導を行います。そして、1人は必ず、プールサイドから子どもの様子を見ていて、水泳指導を行うよりは、安全確保に努めます。そうすると、今の学校の人手不足からは、いくつかのクラスが一緒にプールに入ることになします。そうすると、たかしくんもひとみさんと一緒にプールに入り、ひとみさんが初めて25メートルを泳げたことを知らないはずがないということになります。
 たかしくんとひとみさんは同じ学年のはずである。たかしくんとひとみさんは同じ時間にプールの時間があったはずである。それなに、たかしくんはひとみさんが初めて25メートルを泳げたことを知らなかった。これはどういうことか。
 たかしくんは、病気か何かでプールに入ることができなかった。
 これが原因だとすると、この場面の様子が少しわかるのですが、更に問題が発生します。
 プールを見学するとして、普通はプールサイドで見学するのではないかということです。「見学」の元々の意味は、見て学ぶということです。プールの近くにいなければ見学できません。しかし、中にはプールサイドに行けない子どももいます。たかしくんは「中には」の一人なんでしょうか。普通ではないたかしくんなのでしょうか。そのような一人を教科書で取り上げるのでしょうか。
 更に、たかしくんは自分がプールに入れなかったことをどう思っているかということが問題となります。たかしくんはプールに入りたかったのに入れなかった、と考えると、ひとみさんの「25メートル泳げた」という話は、たかしくんにどう聞こえるのだろう、という問題です。意地悪にしか聞こえないのではないでしょうか。
 ひとみさんが、たかしくんのことは何も考えないで「泳げた」と伝えているのか、意地悪で「泳げた」と言っているのか、そういうことも考えられます。それに対して、たかしくんが素直に「よかったね」と言っているのか、腹立ち紛れに「よかったね」と言っているのか、ということも考えられます。
 たかしくんは、プールが嫌いなのかも知れない、それを今日はたまたま見学になり、喜んでいるのかも知れない。そこへひとみさんが「泳げたよ」と伝えてきたことに、ひとみさんのことを考えて「よかった」と言っているのか、お義理で「よかった」と言ってるのか、その辺も考えられる。

 「今日、はじめて二十五メートル泳げたよ。」の泳げたのが、ひとみさんではないということも考えられます。「今日」までは、プールの横幅方向の練習しか無く、25メートル方向の練習は今日が初めてだったのかも知れません。
 それを今日は体調不良か何かで、見学になり、プールサイドでの見学ではなく、図書室で本を読んでいたたかしくんに、今日の水泳指導の報告にきたひとみさんの言葉かも知れません。
 それでも、今日の水泳指導の内容を、先生はプールに入ってから子どもに伝えたのか、という問題もあります。昨日とか、朝、学習が始まる前に先生から今日の水泳指導の内容を全部の子どもに伝えていないのだろうかという問題です。プールに行ってから、今日の勉強の内容を知らされるのでしょうか。
 そしてここでも、たかしくんはプールに入れなかったことをどう思っているかという問題が付いてきます。

 「今日、はじめて二十五メートル泳げたよ。」が、これまで雨が続いていて、今日やっとプールに入れたということを表しているのだろうかということもあります。しかし、これは考えにくいことです。天気のこと、これまでプールに入れなかったことは、一緒に生活していれば、たかしくんも知っているはずです。

 このように、最初の場面だけでもいろいろと考えておかなければなりません。
 子ども達にいろんなシチュエーションを想定して、吹き出しの言葉を練習させることを授業時間中に行う授業の形態を考えましたが、時間が足りなくなるという心配があります。
 最初の話だけでいろいろと考えなければなりません。後の2つも同じです。


 第2の話。「音楽室に、ノートをおきわすれていたよ。」
 このノート、誰のノートでしょうか。たかしくんのノートかも知れません。ひとみさんのノートかも知れません。班のノートかも知れません。
 ノートの内容はどうでしょうか。単なる授業のノートでしょうか。班のノートでしょうか。交換日記でしょうか。公的なノートか、私的なノートかという問題です。
 それに対するたかしくんの責任の範囲の問題もあります。そこで「助かった。」のか、「ごめんなさい。」なのかが変わってきます。


 第3の話。間をおくかどうか。
 間をおく答え方も、間をおかない答え方も、「そんなことないよ。」が肯定的にも否定的にもなる。
 例えば間をおかずに答えるのも、常日頃ひとみさんのことを間違っていないと考えているから、間をおかずに「そんなことない」と答えたのかも知れないし、おべんちゃらで「そんなことない」と答えたのかも知れません。


 どうとでもとらえることができる、ことの問題。
 この3つの場面を授業で考えさせ、それに応じて子どもに役割分担させ、練習させ、発表させる授業形態は、時間がかかるということです。
 1つの場面で、2時間は時間がかかりそうです。3つあるので6時間。1つの場面で1時間でも3時間です。そんなに授業時間を使えるかな、という問題があります。
 参観日か何かで、イベント的に取り扱うのは面白いかも知れません。しかし、最後の段落にあるように「話している言葉は同じでも、顔の向きや声の調子間の取り方などによって、聞く人の受け止め方はちがいます。」の知識理解だけを目標に組む授業であれば、1時間で済みそうです。


 いかがでしょうか。