「私」の構造 | やまのブログ

「私」の構造

 

 大麻などでハイになっている時に閃いたインスピレーションは記憶に止めるのが難しいものです これはおそらく大なり小なり誰にも共通するのではないかと思うのですが 皆様はどうなのでしょう? 


 インスピレーションなんか感じたことねえよ って人もいるかもだけど そういう人はこの際置いときます 所詮他人の心は分かりません 私に分かるのは自分の心だけ

 ということで 今回の記事は自分の心語りです 大麻経験を基に語っておりますので大麻をご存じの皆様にはご自身の場合と比較しながら見ていただければ幸いです 


 また大麻を経験したことのない皆様には ふ~ん そんなものなの? って程度に捉えていただければと思います 大麻は心(精神)に作用します 人の心はいろいろですしね あなたが大麻を摂取したらどうなるか なんてことは他人の私に分かるはずもありません それでもね あなたが十分な理性と独立した自我をお持ちであるなら大麻の作用についてきっと参考になることもあろうかと思いますよ それでは

 

 

 私はハイになった時に得られるインスピレーションを求めてこそ大麻を使うようなものです でもそのインスピレーションって記憶できないんだよね それは分かっていたからメモを取っていたんです で さっきそれを見返したんだけど なんじゃ こりゃ って感じです しかも これだけしか書いてないのかよ、、、、 自分が怠け者なのがよく分かります、、、、
 そのメモを公開しようかとも思ったのですがやっぱり止めます もし気になる方がいらっしゃいましたなら まあ 適当にご想像ください どんな想像でもそれがあなたの内面に留まる限りは絶対の自由ですから ご自由にどうぞ ただし

 

 ただしその想像は妄想なのだということはくれぐれもご自覚くださいますよう 世間を見ますと現実と妄想の区別がつかないままに言動しているらしい人を時々みかけます それってかなり恥ずかしいことだと思うよ
 かくいう私にもそのような経験がありますので思い返すと赤面ものです 現実と妄想の違いに気づいたなら早く治しましょうね ご自分のために

 

 さてハイになった際のインスピレーションが記憶できないのはおそらくそれが心の深層と関わるものだからかと考えています 表層の意識である私は通常の状態ではインスピレーションを察知できないのだろうと思われるからです ところがハイになり感性のレベルが上がった私はインスピレーションに反応し妄想を始める この妄想が面白いんですよね ここに大麻の醍醐味がある 少なくとも私にとってはそうです

 

 インスピレーションは外部からの刺激と内部からの呼応により瞬時に妄想に生まれ変わります
 外部からの刺激は例えば音楽 例えば絵画 例えば壁のシミ 例えば空気の重さ 等々、、、 なんでもありです


 内部からの呼応は 記憶 意識 埋もれていた記憶 忘れていた意識 それとも潜在していた意識 DNAの記憶 あるいは集合意識? 、、、、 よく分からないものがあるんですよ

 

 自分の記憶にあるものなら私なりに理解していけるだろうし 良くも悪くも納得するんですけどね まったく私の記憶にないものもあるんですよね ???? もしそれがDNAの記憶や集合意識のようなものであるなら個体の記憶しか持たない私には知り得ない 不可知の事柄ということになる

 

 それは不可知 であるにも関わらず 私は非常に強く惹かれる デジャブ そのことにより 私の意識 私の本体と深いつながりがあると推測される 個人的な確信
 そこは*の領域 我であり我でない領域 内宇宙と外宇宙をつなげる領域 原点へ 真理へ 、、、神秘へ、、、

 

 とまあ それはそれとして話を戻します


 

 インスピレーションをきっかけに始まる私の妄想は大きく2種類 物語となる妄想と論理を突き詰めようとする妄想 どちらも記憶するのは難しいけれどイメージは残る 私はその論理の方のイメージを下地にブログを描いている場合が多いのです 

 

 めっちゃハイになってる時ってね 細かいことを考えることが出来ないんだよね ここでこの言葉は適切かとか言い回しをどうするかとかはハイになってる時は考えられない だってそんなの二次的なことだから その時の私の最優先は自分がそれに没頭することだから そこに他者はいないのですよ

 

 でもそれを人に伝えたくなったら話が変わるわけです 例えばこの記事を公開するに当たっては この一文を見ているあなたがいる ということで

 

 ということで今この一文を描いている私はめっちゃハイになって妄想している際の私とは別人格です (ここでの「別人格」という言葉は別の視点や別の価値観の下にいるという意味で使っているだけです) さて それでです

 

 さて それでです ハイになってひたすら妄想している私を一次元の私とします そこは他者のいない世界 そこにいるのは私だけです 他者を意識していない私を一次元の私とします
 次にこのブログ記事などを描いている私を二次元の私とします 二次元の私はあなたを意識しています あなたを意識することで私は一次元から二次元の世界に来ているのですから するとそこに
<見られている>
という感覚が現れます この<見られている>感覚のあるなしが一次元と二次元の最も大きな違いでしょうかね 
 はっきり言ってこの<見られている>って感覚はうざいところもあるんですよね 一人が楽 それでも言いたいことがある 伝えたいことがある やりたいことがある ってことでブログを描いてるわけです ま それはそれとして 

 

 今この文章を残している私はあなたという他者を意識している二次元の私ですが なんらかの形で実際のあなたに出会うと私は二次元からさらに別次元に移ります
 二次元の私が意識しているあなたは特定のあなたではなく不特定のあなたです しかし 実際にあなたに出会ったなら そこには特定のあなたがいる これは大きな違いです 実際にあなたに出会った時の私を三次元の私とします
 ちなみにこれは実社会でもネットでも同じですよ 実社会では顔は見えますが言葉は見えにくい ネットでは顔は見えませんが言葉は見えやすい そこに特定のあなたがいるということで実社会もネットも同じなんです 意味分かるかな? 

 

 三次元の私はあなたに出会うことであなたを知り始めます それはね
<私も見ている>
からなんですよね あなたが私を見ているように私もあなたを見ている 

 

 そして私の内部でカテゴライズが始まります 共感できる人と出来ない人 気の合う人 合わない人 信の置ける人 置けない人、、、 もちろん単純な二者択一にはならないし 実社会だとそれぞれの立場もあるのでよく知りあえるまでには時間がかかる その点でツイッターは分かりやすいんですよね

 

 ネットは匿名で発信できるので実社会の立場にあまり影響されずに言動出来ますからその人の本音が出やすい その言葉の向こうに人間がいる 良くも悪くもそういうものを感じられる

 

 そしてさ ツイッターは固定のアカウント使ってるのでずっと見ているとそのアカを使う人物像も見えてくるでしょ 内面ということでは実社会よりもツイッターの方が見えやすいかな その私に見えたあなたに応じて私は言動しています だからツイッターで会話してる私は実社会にいる私と同様に三次元の私です 三次元の私は誰と話しているかで微妙に(場合によっては露骨に)言動が変化します それはあなたを見て会話しているからです 通じ合えると思えるあなたAと難しいなと感じさせられるあなたBとでは私の身構え方からして違ってきますからね それ あなたも一緒でしょ

 

 あなたも同じなんだよね 構造的に見ればさ 

 

 次元なんて単語使ってつらつら言葉してきましたが 要するに当たり前のことを話しているだけという ちょっとお笑い

 

 おそらくほとんどの人は無意識のうちに次元を使い分けた言動をしているでしょう 私も基本的に同じです たいていは意識せずとも次元の使い分けは自然に行っていると思います 

 

 ツイッター見てるとその人の個性が出ていて面白いです 私はどんな個性でもOKです でもこれはダメ というタイプがあります それは相手に敬意を払わない人

 

 ツイッターって分かりやすいよね、、、、

 

 敬意を払わない人ってさ 「その言動の向こうに人がいる」 ことの意味が分からないのかな それとも分かってやってるのかな 分かってやってるなら お前そこまで人なめとんのか って怒鳴りたくなるな


 分からずにやってるなら 肥大した自我がそうさせているだけなのか それとも本当に分からないのか 本当に分からないなら障碍者ってことなんだけど、、、 共感能力に欠けると内面による自制が出来ないよね

 

 敬意を払わない理由が肥大した自我によるものであるなら  ゆっくりじっくり対応することで相手の気づきを促すことも可能かと思うけれど 相手がサイコパスであるならこれは通じない この場合言葉により善悪や道理を教えるしかない demonaa ima saikopasu ga waruku iwaresuginandayonaa サイコパスは障碍者 tte omottehosiindayonaa surebasa toonin ni saikopasu no jikaku wo mottemoraiyasui,,,,,,osieyasukunaru,,,,なんにしろ心で見ることの出来ないサイコパスに対するにはなんらかの社会的地位が必要 私には無縁

 

 まあ 他者に敬意を払わない人とのおつきあいは難しい 出来れば関わりたくないですよね 敬意の払い方はその人なりのものでいいんですよ それは個性だと思ってます それともキャラというべきかな バカ話ができる相手っていいですよね 自然な会話が出来るってすごくいい 会話の苦手な人もいいのですよ 会話苦手でもその人なりの伝え方があるように思うのです  心に通じればいいのです 通じ合える人とは楽しく共存できるでしょう それでいいのではないでしょうか

 あなたはどう思います?


 

 

 二次元の私が一次元から二次元そして三次元の話をしてきましたけれど 実はもうひとつ別の次元の私もいるようなのです それは四次元と言うべきかそれとも零次元と呼ぶべきか迷うものなのですが それについて触れると異次元に跳んでしまいますので今は止めておきます いつか 私がそれを描きたくなるまでお待ちくだされば幸いです それではまた