コロナウイルスのオミクロン株というのが猛威をふるっています。2月に行こうと予定していた国立劇場の智積院の声明は中止になってしまいました。

 歌舞伎座でもつぎつぎに休演者が出ています。今回見た第3部の「鬼次拍子舞」は、本来芝翫の出し物でしたが、芝翫がコロナウイルスに感染し、その代役になった彦三郎は濃厚接触者で直前になって休演、代役の代役として彦三郎の弟の坂東亀蔵が出ました。

 宝塚や東宝ミュージカル、新橋演舞場の芝居のように芝居全体が休演にならないだけいいのかもしれませんが、こうした代役の代役などは本当に異例です。気の毒だと思います。

 「鬼次拍子舞」は踊りとはいっても、山樵実は長田太郎は、関の戸の大伴黒主のように古怪な大きさを出さなければいけない役なので、急な代役でやるのは厳しかったのではないかと思います。しょうがないと思いつつ、結局「鬼次拍子舞」はなんなのかわからない踊りになってしまいました。ただの歌舞伎レビューのようになってしまいました。

 「鬼次」は「大谷鬼次」という歌舞伎俳優の名前からつけられた名題です。また、踊りの名手だった7代目三津五郎が復活したものです。この演目は、俳優の柄、踊りのうまさで見せるものでしょう。1月の「岩戸の景清」と同様、なんのおもしろみもないものになってしまいました。

 舞台面はモミジの赤い色、つまり秋の出し物です。無理にここで出す必要があったのか疑問です。あとにも書きますが、代役うんぬんに関係なく、第3部は「鼠小僧次郎吉」だけでよかったのではないかと思います。松竹のあせりを理解しつつ、無理な演目設定にひとこと言いたくなります。

 「鼠小僧次郎吉」は、5代目菊五郎によって初演されたもので、子役として蜆売りの三吉に6代目菊五郎が出たことで有名な演目です。必ず古い写真で紹介されます。1993年に国立劇場で復活され、その時は今の菊五郎に、三吉は松也でした。よく覚えています。今回は、菊之助に、息子の丑之助が共演ということで話題になっています。

 時間を短くしての上演ということもあり、物語としては無理があります。もともと黙阿弥の作品は登場人物が全部つながっていき、複雑なのでしょうがないと思いつつ、それにしても、幸蔵(菊之助)の妻、松山(雀右衛門)は若菜屋の娘で、その親戚として新助(巳之助)がいるという設定で、それがわかるのが、大詰。しかもことばでの説明というのにとまどいました。

 たっぷり見せる部分は、幸蔵のうちの場面で、丑之助の哀れな子役の動きと、幸蔵の情けですが、ここももう少し芝居をしてほしいところです。幸蔵の継母が悪役として出てきて、「お前は捨て子だった」ということと、証拠の守り袋を見せるのですが、ここも急な展開です。この継母は発端にも出てきますが、幸蔵の母であることはわかりませんでした。歌舞伎は同じ人がいろいろな役をやることがあるので、見ている側はきょとんとなってしまいそうです。もう少していねいに、説明をつけたり、整理をしたりしたほうがよかったのではないかと思いました。「鬼次拍子舞」をつけて休憩を入れて1時間使うのであれば、「鼠小僧次郎吉」のみにして、その1時間で説明をつけるなりの工夫をした場面をいれたほうがよかったでしょう。

 なお、幕明きに、狂言方に扮した人が物語の説明をしますが、それがほんのあらすじのみで、しかも漢語を多く使ったよくわからないものでした。せっかくの演出も残念な結果になってしまいました。

 最後に、今回気になったことばについて書いておきます

 幕明きの狂言方の説明は、現代人にわかりやすいようにするためか、「不平等」「困難」などのおそらく明治時代以降の漢語が多く使われていました。この作品は、安政年間に作られており、幕末です。そうは言ってもこうした漢語は時代に合いません。現代人にわかりやすいようにするとしても、あまりにも難しい漢語が並びます前に述べたように、人物関係を絵を使うなどして説明したほうがよかったでしょう。

 この狂言方のセリフでは「発端」を「ホ\ッタン」などとアクセントは歌舞伎らしいものですが、上記のような漢語の使用があるほか、「免れる」を「マヌガレル」と発音していました。ここでは「マヌカレル」という伝統的な語形を使うべきだったでしょう。濁音と清音の区別は、語形でもはっきりしないことがある変化であり、意識されないのでしょうか。ほかの語形は古いものを守っていても、ついつい新しい語形を使ってしまうもののようです。

 語形では「おかゆ」を「おかい」、「ゆるされて」を「いるされて」など音韻変化は守られていましたし、鼻濁音もしっかりしています。「400」を「シヒャク」。

 アクセントでは「新助」は「シンスケ ̄」、「短刀」は「タント\―」、「富岡八幡宮」は「トミガオカハチマ\ングー」(ガ、とグは鼻濁音)、「塩焼き」を「シオヤ\キ」、「百両」は「ヒャクリョー ̄」と「ヒャクリョ\ー」がまじっているようでした。「乾の」は「イヌイ ̄」。

 また、何回か前の劇評にも書きましたが、観客の余計な拍手が気になりました。歌舞伎では、俳優が出てきたときに拍手をする必要はないと思います。今は掛け声が掛けられませんから、演技をほめるのに拍手は理解しますが、菊之助が出てきたから拍手、丑之助が出てきたから拍手という必要はないでしょう。あまりにもうるさくて、セリフが聞こえないこともありました。観客はそれほど入っていませんが聞こえないということは、来ている人たちが応援の意味で大きな拍手をしているということです。気持ちはわかりますが、コンサートやファンのつどいではないのですから、その必要はないと思います。