大阪にある「松竹座」という劇場が閉館することになり、5月までの間「さよなら公演」として歌舞伎が上演されています。

しかし、松竹座が閉まってしまうと、道頓堀かいわいに歌舞伎の劇場がなくなることになる、ということで惜しむ声があり、そのため松竹はどうにか劇場を残す方向で話をすすめることにした、というニュースがありました。

NHKでは、4月3日にそのニュースを放送していました。

このニュースで少し違和感を覚えました。次の文章です。

 

大阪松竹座は1923年、大正12年に開業し、歌舞伎など多彩な興行を通じて長年、親しまれてきましたが、運営する松竹は去年、設備などの老朽化を理由に5月に閉館すると発表していました。

 

・読点の位置は、読み方にも関係しますが、「歌舞伎など多大な興行を通じて、長年親しまれてきましたが」と「長年」の前で切ったほうが適切に読めそうです。

 

・1文が長すぎるので、「大正時代から歌舞伎などを上演する劇場として親しまれていた大阪松竹座は、今年の5月に閉館されることになっていました。しかし、劇場を運営する松竹は・・・・」というような内容でまとめてもよさそうです。

 

・「開業」でいいのかどうか?営業を始めるということなので問題はないのですが、劇場だとすれば「開館」でもいいように思います。最後「閉館」となっていることとも合うように感じます。あるいは、歌舞伎の劇場としていえば、伝統的には「開場」と言われます(対義語は「閉場」です)。

 この「開業」は実は、この1文の最大の問題点にも関係します。

 

こうした「文章」のつくりとしての問題もあるのですが、それよりも「事実関係」としてこの1文には問題があると思います。

現在の「大阪松竹座」は1997年に建て替えられて開場した劇場です。

もともとの大阪松竹座は、先ほどのニュースのとおり、1923年に現在の松竹座と同じ場所に洋式劇場として建てられました。

開館当時は映画館としての活用と、松竹少女歌劇団の前身の歌劇部のレビューの公演を上演する劇場として活用とがされたようです。

建築当時、戦中までの間の資料で見ると、歌舞伎の上演はあまりされていないようです。

映画、レビューのほかには新劇、舞踊劇などは上演されたような記録があります。

戦後は、映画館だけになったようで、1994年まで続きました。

そして、1997年に外観を以前の様子を残しつつ、「建て替え」され、それ以降は、年に数回の歌舞伎とそのほかOSK、新派、商業演劇などが上演される劇場になりました。

 

つまり、先ほどのニュースの1文は「あやまり」「ミスリード」に近いと思います。

おそらく「開業」とした理由は、こうした事実関係を少しはしょったということを意識しての選択だったのではないかと思いました。

「大阪松竹座」という名前の劇場が営業を始めたのは1923年であり、歴史は現在まで続いている。

ここを「開場」とか「開館」といってしまうと、まるで今もある劇場と同じになってしまう、ということではないかと思います。

しかし、こう書いていて、もしそういった意識で「開業」を選んだとしても無理があります。

 

大阪松竹座は1923年、大正12年に開業し、歌舞伎など多彩な興行を通じて長年、親しまれてきましたが、運営する松竹は去年、設備などの老朽化を理由に5月に閉館すると発表していました。

→「大阪松竹座」は1997年の開場以来、歌舞伎などの多彩な作品が上演されてきました。しかし、設備が老朽化し、このままの形での存続は難しいため、5月に閉館することが、運営する松竹から発表されていました。

ではどうでしょうか?

実はこのニュースでは1923年にあった前の「大阪松竹座」は関係ありません。

「長年地域に親しまれた」というのを強調するのはわかりますが、今の劇場自体が閉まることには関係ありません。

「老朽化」といってしまうと、1923年からある劇場ならそりゃ古いなと誤解が生じます。

このニュースがいかにも「松竹」側によった感じがして、ニュートラルではないと感じました。

 

さて、先ほど「あやまり」「ミスリード」と強めに言いました。

古い劇場は長年そこでいろいろな芝居を上演することで、劇場のカラーができあがります。同じ場所に同じ名前の劇場ができても、長年の芝居による劇場のにおいや良さはなくなってしまいます。

劇場をどんどん新しくすることにはその点で反対です。

機能を向上しつつ、いまある劇場を大切にしていくことも大切です。

しかし、今回のニュースの説明のしかたは無理やり「大阪松竹座」には「伝統がある」ということを伝えているように感じます。

1923年開場の大阪松竹座は、長年映画を中心にした劇場でした。それを「歌舞伎など」とこれも伝統芸能を例にあげていることからも、無理やりに伝統を押しつけているのがわかります。

 

大阪の劇場でいえば、江戸時代以来の道頓堀の歌舞伎劇場の歴史がある「中座」は1999年に閉場しています。

あの劇場をおしんでほしかった。

中座も江戸時代から続いている建物ではありませんでしたが、3階席にめずらしい桟敷があり、劇場の機構としても非常におもむきがありました。藤山寛美がずっと専門劇場として興行をうっていたという歴史もあります。

「松竹座」ももったいないと思いますし、残ることになってよかったと思っています。

「国立劇場」も同様に残してほしい。新しくするお金がないのであれば、今あるものを整備すればいいでしょう。

 

 

とても久しぶりに「新劇」を見てきました。

私の演劇経験(見るだけ)は父に導かれてきました。

演劇に限らず音楽会にも連れていってもらいました。

いろいろな事情もあって、中学、高校、大学になってもひとりで劇場に行くということはなく、たいていは父と一緒に言っていました。

新劇は、特に名作と言われる演目や評判になっている劇団を、大学時代によく行きました。

その中のひとつが、井上ひさしの脚本作品を上演する「こまつ座」の公演です。

当時は、井上ひさし自信も存名中でしたし、新作も書いていました。遅筆で知られる人なので、延期になったりということもありました。

テーマも私の興味に合っていたので、本当によく見ました。

ただ、井上ひさしの作品は、ときに暗かったり、いじわるさがあらわれるようなものがあるので、得意ではありませんでした。

いつぶりでしょうか、父が亡くなって(2012年に亡くなりました)から初めてです。

新宿のサザンシアターもそういえば、父と言って以来。できたての時に1回とそのあとにもう1回、それ以来でしょうか。

とてもなつかしい気持ちがしました。

 

今回は「国語事件殺人辞典」を見に行きました。

この作品は、去年のはじめ、国語辞典について考えるのにおもしろい資料はないかなと思いながら、探していてこの作品の脚本集を見つけました。

古本でも買って読みました。

ことばの正しさとは?美しい日本語はあるのか?などを考えさせ、最後は「いいえ」が言えなくなっていくおそろしさを述べるという内容です。

ことばは語順がかわったり、句読点での区切り方が変になったりすると通じない。変化とは言っても、ことばの使い方の変化はあるけれど、文法などの変化ではないというようなことも描く作品です。

この作品は、40年以上前の作品で、初演以来の上演のようです。

去年、たまたま脚本集を読んでいたので、これは実際に見に行かなくてはと思いました。

なぜ今この作品なのか?は最後の部分で、「いいえ」を質にとられて、人々は「はい」しか言えなくなります。

ここが今の日本の政治、社会への注意喚起になるからなのではないかと思いました。

「日本語」の変化、辞書とは、日本語とはを問いながら、政治的なメッセージも入れ込んでいて、それがとても自然に伝わる内容でした。

今回見ていてこの作品は

  ことばの変化とは言っても表面だけ、ということを言いたいのではなく、語順が   

  かわったり、アクセントがかわったり、句読点がなくて読み方がおかしくてもこ  

  とばは伝わる。

 

  ことばが出にくい人でも、伝えようとすることが重要。

  「伝える」ためにはどのようにことばを整えればよいのか、ではなく、伝えたいと  

  いう気持ちがあれば伝わる。

こういうことが言いたいことなのかと感じました。

セリフ量の多さ、はやさ、それでいて理解できる内容になっていて、そこはすばらしいと思いました。

 

プログラムがわりの劇団の雑誌に、井上都(井上ひさしの長女で、こまつ座の元代表)のエッセーがあり、驚きました。

井上ひさしと仲違いをして、劇団の代表をやめさせられ、結局、妹の井上麻矢が劇団の代表になったという経緯があります。

あまりいいやめ方ではなく、井上ひさし、井上都どちらも異なった言い分があり、当時話題になったと記憶しています。

それが劇団の雑誌に連載ができるほどに関係が修復した(井上ひさしは亡くなっていますし)ということでしょうか。

エッセーは連載のようです。井上ひさしの不興をかった理由なども書いていました。

この雑誌だけでもしばらく買おうかな。

 

公演は明日まで。

そのあと、新歌舞伎座と高崎での公演があります。

ふだん朝ドラをちゃんと見ることはありません。

昼休憩のときに放送を見られる環境にいれば・・・見るというぐらいです。

でも2025年度後半の朝ドラ「ばけばけ」はしっかりと見ました。

そんな「ばけばけ」が2026年3月27日に最終回でした。

最終回では「フロックコート」を「フロッグコート」となまって呼んでいる様子が出てきました。

英語が苦手な主人公のトキらしい逸話として語られていました。

「フロックコート」を「フロッグコート」と呼んでしまうことは、当時(明治時代)の日本ではそれほど珍しいことではなかったのではないか?という疑問を感じました。

 

まず、国立国会図書館デジタルコレクションで「フロッグコート」を検索してみました。

検索の結果1885年ぐらいの英会話の教科書が出てきました。が、これは印字のにじみで「フロックコート」のようです。

当初、私の仮説は、明治時代に日本でも洋装が広く用いられるようになって「フロックコート」も広まった。しかし一般には発音のしにくさなどから「フロッグコート」という言い方も使われたのではないか?というものでした。

こうした仮説はどうも成り立たないようです。

帝国議会の議員の服装として「モーニング」と「フロックコート」が示されているなど、資料としては「フロックコート」の表記が多そうです。

 

しかし「フロッグコート」という表記もまったくないわけではありません。

1905(明治38)年6月1日の圓圓珍聞には「フロツグコート」という表記があります。

そのほかにも「グ」の表記はいくつか見られます。

現代でも、本来は語末(厳密には複合語の前の部分の最後も含む)では本来は清音なのに、なまって濁音で発音される外来語はあります。

ダックスフント→ダックスフンド

ただ、これは発音のしやすさよりもスペルの問題かもしれませんが・・・。

劇作家の「イプセン(p)」は、明治、大正には「イブセン(b)」で呼ばれることもあったようです。

戸板康二は『対談日本新劇史』で「イプセン」が一般には「イブセン」と呼ばれていたことを説明しています。

濁音が清音で定着している外来語は多くあります。

「バッグ(かばん)」→「バック」(このため「Tバック」と「ティーバッグ」の混交が起きることがあります)

「ビッグ」→「ビック」

「バグダッド」→「バグダット」などです。

このように、外来語の語形は日本語では発音のしやすさしにくさや誤解があり、不安定です。

「トキ」に限らず、日本人の発音は今とはことなっていました。

「フォーク」は「ホーク」という形も使われたり、「アスファルト」は「アスハルト」になるなど、ファ、フィ、フェ、フォは発音しにくかったと思います。

「ワイシャツ」は「ホワイトシャツ」を明治時代の人が耳で聞いて「ワイシャツ」として定着したものでしょうし、原音からかけはなれて定着してしまった外来語は多くありそうです。

今のようにスペルからその読みを類推したり、もとのことばから考えることも難しかったでしょう。

そう考えると「フロックコート」を「フロッグコート」と呼んで、それを特殊だというふうにドラマで扱うのは、違和感があります。

最初に調べたように、さすがに明治時代でも「フロッグコート」となまる例は多かったというわけではなさそうですが、まったくないわけではありません。

ありがちな間違いとも言えるのではないでしょうか。

ドラマは現実をそのままに描くわけではありません。時代劇であっても現代の人にわかりやすいように現代のことばを使うことはあると思います。

ただ、このように発音の違いを用いてドラマを展開する場合には、多少、当時の日本人の発音と現代の発音との違いには留意してほしいように感じます。

都合が良すぎる気がするのです。

トキのモデルになったラフカディオ・ハーンの妻・せつの「思い出の記」では「フロックコート」とあります。ラフカディオ・ハーンはフロックコートが大嫌いだったと書かれています。

2月2日放送のNHK『映像の世紀 バタフライエフェクト』は女形についてでした。

6代目歌右衛門を中心に「真女形」(まおんながた)の特集です。

6代目歌右衛門、4代目雀右衛門、そして玉三郎についてでした。

私にとって歌右衛門は歌舞伎を好きになったきっかけの俳優です。

こうしたドキュメンタリーで歌舞伎だけを扱うのは非常に珍しいので、楽しみに、そして楽しく見ました。

いくつか気になる表現とアクセント、語形があったので、メモをしておきます。

 

・襲名興行を離脱した。

 →6代目歌右衛門の襲名興行を映画出演のために雀右衛門が途中で抜けたということを言うのに「離脱」という表現を一貫して使っていました。

 あやまりということではありませんが、戦いを途中で離れたということではなく、ただ、休演なんだと思います。

 共に女形という世界で戦うつもりの同志だったのに、その戦いから離れたという強調でしょうか。やや思い込みの強い表現だったと思います。

 「襲名興行を途中で休演しました」で十分だったのではないでしょうか。

 

・真女形のアクセント

 辞書にはありませんでした(NHKアクセント辞典、大辞林などアクセントがついている辞書)。

 ただ、私自身が子どもの頃からなじんでいるのは「マオ\ンナガタ」でした。

 放送では「マオンナガタ ̄」。初めて聞いたアクセントです。

 

・若女形の語形

 三島由紀夫の「女形のこと」についての朗読で「若女形」を「わかおんながた」と読んでいました。

 私は「わかおやま」の語形しか知りませんでした。

 『日国』では「わかおんながた」、歌舞伎事典(平凡社)は「わかおやま」を空見出しとして、「女形」の項目に「わかおんながた」という語形を示しています。

 そうか、「わかおんながた」なのかを思ったら、ネットで示されている歌舞伎用語案内では「わかおやま」、歌舞伎座のサイトで「かぶきにゃんたろう」の解説では「わかおやま」でした。

 文化デジタルライブラリーでは「若女方」の表記で「わかおんながた」です。

 ゆれがあるようです。

 「わかおんながた」が誤りとはいえませんが、慣用的には「立女形(たておやま)」「若女形(わかおやま)」。そして「女形」単独では「おんながた」となると思います。

 この語形については、ちゃんと調べてみようと思います。

 YouTubeでよく昭和の曲を聴きます。最近気に入っているのは、宮本典子と西城秀樹です。

 西城秀樹は幼稚園のころのアイドルで、当時大好きでした。

 宮本典子は、今まで知りませんでした。「エピソード」とか「ラストトレイン」とか聴きやすくていい曲です。

 さて、昭和の曲を聴いていると、あ、今のことばと少し違うな、と思う部分が出てきます。西城秀樹のデビューに近いころの曲「恋の約束」の歌詞に「君を 君を 好きだよ」という部分があります。「君が」じゃないんだ、なぜ「を」なのかを疑問に感じました。

文法的なことは苦手ですが、今年はがんばってみようと思います。

 

『新選第10版』には、助詞「が」の項目に「感情表現のうち、「・・・たい」の対象を表す場合は、「を」もよく用いられるが、「・・・をほしい(すきだ)」のような使い方は一般的でない。可能の対象の場合も、「が」のほうが一般的。」とあります。

『明鏡第2版』(最新は第3版)には「君を好き(嫌い)だ」など、好悪を表す表現では「を」とも言うが、「が」が一般的。」と「が」の項目にあり、「好き」の洋木には「~ハ~ガ好きだ」が一般的だが、「その作家もまた私を好きなのだ(太宰治)」のように。~ガを~ヲに代えていうことも多い。「嫌い」の場合も同様。「あなただって僕を嫌いではないでしょう(円地文子)」」とあります。

国立国語研究所の研究者コラム(「結果が/を出せる」のどちらが自然ですか - ことばの疑問 - ことば研究館 | 国立国語研究所)では、文法的には「が」が正しいのだが、「を」も出てくることがあり、それは、可能形のほかに、「したい」などの願望形、「好き「嫌い」「できる」「欲しい」のような述語を使うときに見られるとあります。また若い人ほど「を」を使うことが増えてきているそうです。

 さて、ここまで考えると「君を好き」「君が好き」は「君が好き」のほうが一般的だけれども「君を」もおかしくはないことがわかります。

西城秀樹の曲「恋の約束」の中の歌詞「君を好きだよ」です。1972年の曲ですし作詞・作曲の人たちは1930年代生まれですので、若い世代とは言えなさそうです。

 歌詞の前後には、「僕は」「君がいなけりゃ」「僕の涙」「誰が」「君に」などいくつかの助詞が使われています。「君を」とすることで、助詞の重なりがないというのは大きな選択理由だったのではないかと思いました。

なお、「新選」にあった「感情表現のうち「~たい」の対象を表す場合は「を」もよく用いられるというのによく指摘があるのは「水を飲みたい・水が飲みたい」のような場合だと思います。『大辞林第4版』によれば「(助動詞の「たい」が)他動詞の動詞(飲むなど)に付く場合、希望の対象になる語は「が」または「を」で示される。「水が飲みたい」「水を飲みたい」」(()に入れた文言は筆者注)とあります。

「水を飲みたい・水が飲みたい」は「水が飲みたい」がごくごく一般的だけれど「水を」でもおかしくはないとされます。また意味が異なるとも考えられるようです。

「水を飲みたい・水が飲みたい」という場合は、「水が飲みたい」の場合は、「コーヒーなどではなく飲むものは水でなければいけない」という意味になります。「水を飲みたい」は「コーヒーやコーラ」など飲めれば水分ならなんでもよいという意味です。「水」であれば納得できるのですが「パンを食べたい・パンが食べたい」となると、上記の「水」のときのような使い分けがはっきりしないように感じます。どちらもあるけれども「が」のほうが「パン」を強調しているように感じる程度です。

「水を飲みたい」「水が飲みたい」

「水をいっぱい飲みたい」「水がいっぱい飲みたい」

動詞と目的語との位置が遠くなると「を」が出やすくなるというように書かれている解説もあります。

 

塩田雄大(2004)「水が飲みたい?水を飲みたい?」『最近気になる放送用語』

水が飲みたい? 水を飲みたい? | ことば(放送用語) - 最近気になる放送用語 | NHK放送文化研究所

 

追加

「君が好き」というとダブルミーニングになるように感じます。

「君のことが好き」ということと「君が好き(なもの)」ということです。

「君を好き」のほうが、相手に「好き」が向かっているように感じます。