先日見た新派もそうでしたが、今月の歌舞伎も歌舞伎座、国立劇場と空席が目立っていると聞いています。歌舞伎座は、1部の猿之助だけが客の入りがいいそうで、2部、3部はさびしい客席のようです。新派は、もう大劇場では1か月の興行は無理だろうと思わせました。そして、国立劇場も、半分ぐらいの入りでしょうか。国立劇場は、基本的には正午開演なので、平日には見に行きにくいということもあるでしょう。平日はもっときびしい客席だったのではないでしょうか。開演時間だけでなく、国立劇場の立地も関係していそうです。それは今に始まったことではありませんが。新派も同様ですが、いいお芝居でもあるので、もったいないと思います。

 さて、梅玉、時蔵中心の座組です。海老蔵の公演を中心に出ていて、最近、ほかの舞台では見ていなかった市蔵も出ていました。海老蔵が巡業中だからでしょうか。大歌舞伎に戻ってもいいように思います。

 今回の公演は「伊勢音頭」の油屋と殺しの場面だけでなく、二見が浦の場面、その前の発端の場面がつき、筋がとおりやすくなっています。その点、扇雀が演じた万次郎のだめっぷりがはっきりしますし、なぜ貢が折紙を探したり、刀を取り違えたことを人を殺すほどあわてるのかがわかりやすくなります。国立劇場は、開場から55年、こういう松竹系の芝居ではやらない端場を復活して上演するのが大切な役割でした。これは大きなことだと思います。ああ結局、つまらない場面だなぁと思うことが多いのですが、それでも復活することで、その物語の本質がわかることもあります。

 最近、古い芸談を集中的に読んでいますが、幕開きに三味線をひいて、伊勢参りの人達からの御祝儀をもらう旅芸人の様子などは、おそらく昔は端役の人達の見せどころで、それらしく見せていたんだろうと思います。そういう味わいが失われるのは、江戸時代が身近だったころと、現代との違いでしかたがないことだと思います。それでも今回はらしく見せているというふうに思いました。

 奴林平と大蔵、丈四郎との追いかけっこは、おかしみを入れて、長く続くのですが、ここは、林平を演じた萬太郎の若さと明るさで現代風になってしまい、少し長い感じがしました。現代風になっているせいで、今には伝わらないようなおかしみを観客がどう見ればいいのかわからなくなります。二見が浦で、梅玉が出てくると、やっと歌舞伎に戻ります。

 油屋の場面では、お鹿が歌昇でした。滑稽な女形をがんばってはいましたが、お鹿のかわいらしさが出ません。やり方によっては万野とぐるになっているようにも見えてしまい、このお鹿は難しいと思います。お鹿は田舎者でブスだけれども、かわいい女性です。お鹿は、顔が悪いということではなく、身の程知らずというのが不器量だということではないでしょうか。その点、歌昇は悪くないのですが、愛嬌が足りません。

 お紺は梅枝です。本役だと思いますが、少しキッパリとしたところがないのかもしれません。縁切りのところで、梅玉との芸のバランスが悪いようです。

 万野の時蔵はにくらしさが足りません。ただ、時蔵の冷たさで万野らしさは出たように思いますが、貢とのやりとりなどもあっさり、さっぱりしており、貢がなぜあれほど怒るのかがわかりません。状況で理解はできますが、それだけでは、貢が短気なだけじゃないかと思ってしまいます。

 今回、ところどころ短くしているところもありそうです。出ている人達があっさりした芸風であることは理解しますが、短くしているせいもあって、よりあっさり味になってしまいました。

 今回の芝居で気づいたことばは「刀の折紙」がいっかんして「オリカミ」でアクセントは「オリ\カミ」でした。「大蔵」のアクセントは「ダイゾ\ー」。

 刀の名前は「青江下坂」で、史実では「葵下坂」というようです。「アオエ」と「アオイ」だと、イとエの違いで江戸では「アオエ」も「アオイ」と聞こえたんじゃないでしょうか。