国立文楽劇場に行きました。この劇場は、子どものころに、劇場のまわりを歩いて劇場の外観を見た記憶はあるのですが、中に入るのは初めてです。

 850人収容ぐらいの大きさで、国立小劇場ぐらいですが、横に広がっているせいか、見た感じは、国立小劇場よりも広く見えます。

 7月18日からは、3部制で上演されていて、今回は18時開演の3部「夏祭」を見てきました。お休みの日でしたが、客席は半数も入っていないぐらいでした。2部に上演されている「生写朝顔話」に幹部が出ており、そちらにお客さんが集中しているのでしょうか。コロナウイルス感染対策のために、夜遅くまでということを避けているせいでしょうか。

 「夏祭」は、先日出席した歌舞伎の勉強会で、ビデオを見たり、脚本を読んだりしたばかりですし、歌舞伎でも、比較的よく見る演目なので、歌舞伎との違いを確認しながら見ることができました。

 歌舞伎との違いは殺しの場面がさほどしつこくないという点。それと、そういった入れ事がない分、本筋が入ってきやすいと思いました。

 歌舞伎と同様、住吉鳥居前、三婦内、殺し場の3場面での上演で、そのほかの場面は出ませんが、三婦内の場面で、磯之丞が琴浦という人がいながら、奉公先の女中と恋仲になり、心中事件を起こしたということが語られます。おそらく、歌舞伎でもあるんだろうと思うのですが、義太夫だとそこがわかりやすいように思いました。

 三婦内の場面は、外から見えるところで、磯之丞と琴浦がけんかをしているところから始まります。そこは歌舞伎も同様なのですが、歌舞伎では、磯之丞がほかの女に色目を使ったというような痴話げんかだと思っていました。実は、それどころじゃなくて、心中をしようとしてしまうこと、また、団七たちが、磯之丞に罪をきせないために、番頭を心中の相手方に仕立てて殺したということなどが語られています。そこがわかりやすいように思いました。

 義平次殺しも、そういうどうしようもない主人・磯之丞のためであり、団七の男をたてるためというどうでもいいことが理由になっていて、歌舞伎でこれをはっきりさせてしまうと、俳優もやりにくいということがあるのかもしれません。

 以前、「夏祭」を文楽で見た記憶がありますが、その時には、義平次がもう少し憎々しかったような印象がありました。義太夫の声、それから人形の動きも義平次がもう少しいやなおじいさんでした。たっぷり憎々しくやってくれたので、団七が殺さなければいけないところに追い詰められるところに納得がいきました。今回は、そこがあっさりしており、義平次も、さほどしつこくないので、団七の勝手さや、磯之丞のだめさが強調されているように思います。それはそれでおもしろいのかもしれませんが、現代的になってしまうということと、あまりにもあっさりしてしまい、夏祭というにぎやかさの中で行われる殺人との対比という、この演目のおもしろさが失われたように思います。

 文楽を見る前に、この夏祭の舞台になっている「高津宮」におまいりにいきました。ちょうど夏祭りの屋台が出ていて、その様子とともに、ご当地の演目を楽しみました。

 ところで、以前、このブログに朝ドラの「おちょやん」で、冬に歌舞伎の「夏祭」を上演するのかどうか?という疑問を書いたことがあります。やはり、「夏祭」を道頓堀の芝居で冬にやることはないでしょう。大正時代はまだまだ季節を大切にしたはずということ以上に、やはり、ご当地の季節ものというのがポイントだと思います。

 今回、文楽を見てポイントとしてメモしたのは人名のアクセントです。

 「徳兵衛」は「トクベ\ー」「イッス\ン・トクベ\ー」。

 「佐賀右衛門」は「サガエ\モン」でした。「○○右衛門」は「○○エ\モン」というアクセントが基本なのではないかと思いました。「吉右衛門」「歌右衛門」は現代ではファンの間では平板でしか読まれませんが、自称では「○○エ\モン」が出てきます。俳優の名前の平板化の一種なのではないかと思いました。