古本でやっと手に入れた本です。

 戸板康二の作品には、似たタイトルのミステリー小説があります。『劇場の迷子』です。これとは違い、『劇場の椅子』は随筆です。

 あとがきには、戸板康二が多くの時間を過ごす劇場の椅子。そこで考えたことを随筆としてまとめたとあります。古い時代のものなので、のちのことを考えると、戸板の杞憂だったというようなこともあります。例えば、4代目雀右衛門(当時は7代目大谷友右衛門)について、映画に出て人気が出ていること、あるいは、新しい時代の女形として作り上げようとしているものに対して不安に感じ、意見しています。これを読むと、理論派である大谷友右衛門の女形像を戸板がよく思っていなかったことがわかります。また、当時、映画を優先して6代目歌右衛門の襲名興行を途中休演したという事件があったことがわかりました。

 その後、雀右衛門は、映画をやめ、歌舞伎に専念します。恵まれずに勘弥とともに国立劇場に立てこもっていた時期が長くあったにせよ、最終的には歌右衛門を手本として、立女形として大成していきます。雀右衛門の自伝も出ているので、読んでおこうと思いました。

 この本を読もうと思ったのは、こうした戸板の俳優論が入っているからですが、読んでよかったと思ったのは、戸板の観客論、掛け声論です。

 私は、子どものころに父に連れられて歌舞伎やそのほかのお芝居を見に行っていました。特に中学になってからは、自分でも好きになり、毎月見に行くようになりました。小学校のころはうるさく言われませんでしたが、中学になると、観劇のしかたについてときどき注意されました。

 例えば、拍手のしかたです。今は幕があくとなにもなくても拍手をする場合が多いですが、つられて拍手するのをとめられました。必要がない拍手はすべきではないし、演技に対しても基本的には拍手はしない。幕が閉じるときのみと言われました。かけ声も(私はもちろんかけたことも、かけようとしたこともありませんが)、屋号や住んでいるところの名前などのほかに「ご両人」とか「待ってました」とかの声がかかることもいやがっていました。

 一方で、歌舞伎鑑賞教室に行くと、かけ声はかけてくださいなどという若手の俳優がいたり、実際の舞台でも、「役者の神様」などの声がかかってわいたりします。父がおかしいといっていたのはなぜなのかな?と疑問に感じていました。戸板康二は『劇場の椅子』の中で、品のないかけ声に苦言を呈しています。かけ声をかけるなというのではなく、半可通な人がかけ声をかけて、場を壊しているということを述べています。

 こうしたことは、戦後の歌舞伎界では、よく言われていたことなのかもしれません。そのほか、拍手などのしかたや観客層の変化についても触れられています。明治、大正生まれの観客が残っていた戦後に、新しい観客が増え、そうした観客の態度がひどいと感じられたのではないでしょうか。

 古本で、この本以前に戸板康二が書いた『俳優論』『歌舞伎の周囲』も買ったので、次は、この2冊を読もうと思っています。