2021年になりました。去年は、コロナウイルスによる混乱とともに、個人的なことでも、いろいろなことがあった1年でした。

 さて、今年最初に読んだのは、劇評家として新聞批評も書いている犬丸治による新書です。平成30年間の歌舞伎を平成歌舞伎として区切り、この時代に歌舞伎を支えた俳優達の芸談をもとに、歌舞伎の本質をさぐろうという試みによってまとめられた本です。

 平成歌舞伎は、私が見てきた歌舞伎と重なります。自分の見てきたものを思い出しながら読みました。

 平成の歌舞伎は、重鎮としては6代目歌右衛門、7代目梅幸が健在で、最後の花と言うような芸を見せた時代です。おそらく盛りの花とは違ったとは思いますが、本書にあるような型から自由になった芝居を見せてくれていました。

 17代目勘三郎、2代目松緑も、かろうじて見ましたが、勘三郎や松緑を見てきた世代には脇として認識されている17代目羽左衛門が平成には長老格として、それまで松緑がやっていた役に新しい解釈を加えて見せていました。

 そして、雀右衛門、芝翫、富十郎など、昭和期に恵まれなかった俳優たちの充実の舞台もあり、少し世代は下ですが、宗十郎も特筆すべき人でした。

 平成の歌舞伎の充実の花といえば、12代目団十郎、15代目仁左衛門、玉三郎、2代目吉右衛門、7代目菊五郎となるでしょうか。この人たちが令和には歌右衛門、梅幸のような役割をするはずです。

 18代目勘三郎、10代目三津五郎はその世代の次として、平成だけでなく、令和の花になるはずでした。12代目団十郎とともに、この2人の喪失はその時の衝撃以上に、今になって、歌舞伎らしさを次の世代につなぐ人を失ったのだということに気づかされます。最近、歌舞伎を見ていて、歌舞伎がまったく違った演劇になろうとしているように感じます。

 本書はそうした危機感を持ち、まとめられたものでしょう。

 新之助時代の海老蔵の助六、また、その発言を取り上げて、新之助の助六を見たときの衝撃を語っています。そして、それが今の海老蔵への忠告にもなっています。18代目勘三郎については、急ぎすぎたというようなことを述べており、それに納得します。それは生き急いだということではなく、これ見よがしな芸ということにもつながるように思いました。

 それが間違った形で現代の俳優たちに伝わってしまっているのではないでしょうか。

 本書は、いくつもの芸談を取り上げますが、すべてのことばが、歌舞伎は型の芸と言われるが、役を考えれば自然に動きができ、型から自由になるという結論になっています。形だけをまねるのではなく、役に入りこみ、それが演技を作っていくというのが、歌舞伎の神髄だということです。

 歌舞伎で難しいのは、荒事のように形が重要なものもあります。ただ、それも形のまねではなく、精神から理解しないといけません。

 こうしたことで、「芸談」がただ、歌舞伎を鑑賞するにあたって勉強のために読むだけでなく、先人の声を聞くものでもあることがわかる資料だと思いました。

しかし、本書はこのように結論が1つなので、いろいろな芸談を示しますが、偏りがありますし、内容が単調だなと感じました。

少し細かいのですが、ことばの選び方と文章に気になるところがいくつかありました。

  「ケレン」というかたちで歌舞伎で臆面もなく披露されたのが(p.2)

 「臆面もなく」とありますが、「ケレン」は隠すべきものである、恥ずべきものであるという前提がなく、こう言われても違和感があります。「ケレン」についての説明がないままは不注意です。

  歌舞伎は常に虚実の皮膜をたゆたうている。(p.5)

 これは「たゆとうている」でいいのではないでしょうか。「たゆたうて」は旧仮名遣いになってしまいます。

  人形浄瑠璃(文楽)を歌舞伎化した義太夫狂言は、現行歌舞伎のレパートリー中六割は占めているだろうか。(p.146)

 「六割は」の「は」の必要があるでしょうか。

 また、『筆幸』について「一見大時代な設定」とありますが、世話事の演目で「大時代」と言えるのかどうかわかりませんでした。

 少し急いで書いているのか、気持ちを入れたいのか、上記に示したように不注意な1語があると感じる部分がいくつかありました。

 ところで、タイトルには「藝談」の表記が使われています。常用漢字表では「藝」は「芸」に置き換えられています。本来は別字ではありますが、「藝」と「芸」の違いについてふれられていないので、これも「藝」である必要があったのか考慮が必要だと思います。