『団蔵入水』に続いて戸板康二の本です。

 ここのところ、戸板康二の随筆や、歌舞伎関係の本をまとめて読むために、古本で買ったり、以前、父に買ってもらってあったものを見つけ出したりしています。加えて戸板康二が書いた雑誌の記事や対談などの記事も集めています。これから、戸板康二以外の劇評家の書いたものも読まなければいけないと思っていますが、手始めに読むには、戸板康二の本はとても読みやすいものです。

 さて、本書は、歌舞伎評論家としての戸板康二だけでなく、劇評家あるいは、劇作家、書評家としての戸板康二がわかる本です。1988年発行ですが、短編で構成されており、それぞれ1970年代から80年代に書かれたものです。内容はわかりやすいとは言っても、ロシアやフランスなどの海外の古典戯曲にも通じていないと読み取れないところがいくつかあります。例えば、次のような表現を読むと、この本が出されたときに、この本を読んだ人には当然通じたのだろうか、という疑問がわきます。

  フェドーも古典劇にはちがいないから、劇の筋を、多くの観客は、歌舞伎のファンが黙阿弥の世話狂言の内容を知っているのと同じように、通暁しているはずである。(p.46)

 フェドーがわかるかどうか。新劇のファンとして、今の人も知っているかどうか。

戸板康二は1915年の大正の東京生まれです。私の父であれば知っていただろうと

思うと、大正生まれ、昭和の戦前生まれと、今の世代で差があるのでしょう(私の

父は昭和14年うまれです)。

  川口さんの味つけによる新派二番目狂言は、定着して微塵もゆるがぬ構成を持ち、役者を自由に動かす力を持っているのだった。(p.42)

 ここはどうでしょう、「新派二番目狂言」の意味がわかるかどうか。すでに新派と

いう芝居がほとんど失われているということもありますし、二番目狂言などのこと

ばが生きていません。そういう点でいうと、この本は読み進むのに少しの知識がい

るのだと思います。

そのほか、戸板康二が新しいことば、あるいは使われなくなったと認識していることばについて書いています。

「女ざかり」ということばが戦後使われるようになった様子や、「女中」ということばが使われなくなったこと、あるいは、新派の『婦系図』で妙子が言う「知らないわ」といったことばが、古い時代のことばであることを書いています。この「知らないわ」ということばは、芝居を見ていて、ときどき聞くことがあり、印象深いことばだと思っていました。「わ」という語末表現や、演じている人の動作がわざとらしいなぁ。若い女の子らしさを出すためなんだろうけれども、こういうことばは使わないなぁという違和感もあり、印象深く感じていました。

戸板康二が言うには戦前までの女学生のことばだったということでした。そうだとすると今の演者と、このことばが生きていた当時のアクセントは違っていたんじゃないでしょうか。今の使われることばだからこそ、気づきにくいのですが、時代によって意味が変化したことばなのでしょう。

おそらく戸板康二の書いたものには、こうしたことばについての指摘が多くあるのではないかと思います。読まなくてはいけません。

また、戸板康二が書評した本は読んでおいたほうがいいという気になりました。読まなくちゃいけない本をメモしておきます。

  福岡隆『活字にならなかった話』

   歌右衛門と鴈治郎の芸談が入っているようです。

  『吉右衛門日記』

   これは読み直さなければいけない本です。

  折口信夫『かぶき讃』

  岸井良衛『ひとつの劇界放浪記』

   もっていた気がします。

  坂本朝一『放送よもやま話』

  円地文子・白州正子『古典夜話』

  池田弥三郎『わが戦後』

 (『わが戦後』はすぐに古本で買いました)

 このほか、芸談の楽しみ方について「忘れ得ぬ断章」(p.95~)にあります。今後の参考になりそうです。「『歌舞伎年表』の恩恵」(p.125~)には次のようにあります。

  むろん、ごく近い明治の部分までふくめて、歌舞伎について書く独特の表現がある。術語や通言、更には動詞副詞形容詞にも、今の一般の言葉にないいいまわしがあって、それを判読するだけの用意は必要である。(p.127)

 明治から現代までの間のことばの変化について触れており、これも参考になりそ

うです。

 朝・昼・夜で読む本をかえて、同時に何冊か読むという読書法は、外山滋比古にも似たようなことが書かれていました。場所によって読む本をかえる、時間によって読む本をかえる。どちらもやってみましたが、どちらも本を読み進めやすいと思います。