「私は親の死に目に会えない覚悟を持って仕事をしている」

 

 

天下を取ったかのように豪語していた人を冷ややかな目で見ていた僕たち。

 

 

この件についてのもやもやを語り尽くしたけれど、結局あまりスッキリしなかったので

記事にしてみたら「そういうことか!」と一つの結論に至った。

 

 

以前やまぴに「結論が見えなくても書きたいことを書けばいい」と言われていたのに

つい結論を求めてしまう僕。

 

 

でも結論が見えないまま書くようになると書きながらいろいろ整理されて

着地点も見えてくるのを発見できた。

 

 

昨日は結論も見えないままこんな記事を書いたら、

 

 

 

 

一つの着地点に辿り着いた。

 

 

美しく丁寧に整えられた死を望むようになったのは

「美しく丁寧に整えられていない死」をたくさんみてきたから。

 

 

たくさんと言っても10人未満だと思うけれど、

みんな身近な人で幼い頃の経験もある。

 

 

なので、「死に対するちょっと極端な思い込み」が僕の中にあったと思う。

 

 

例えば、

「人というのは予告なく、前触れなく死んじゃうんだ」とか

「人というのは残された人のことを裏切る形で死ぬこともあるんだ」とか

「人というのは衰弱してだんだん動かなくなって死ぬこともあるんだ」とか

「人というのはどんなに強く見える人でも精神的苦痛から自ら命を絶つこともあるんだ」とか

 

 

逆に言えば「看取る」とか「死に目に立ち会う」という経験がない。

 

 

でも母の死の時は「予告も前触れもあった」ので、突然だったけれど

心の準備は整っていた。

 

 

一番ショックだったけれど、なんとなくわかっていた。

少しでもショックが和らぐように準備が整えられていたのかもしれない。

 

 

一つは「母と経験するべきことはもう終わった」という不思議な感覚だった。

なので魂と言えばいいのか、深いところでは納得して死を受け入れていたんだと思う。

 

 

母の突然の死は僕にとって何を意味しているのかを聞いてみたら

「死」(闇)から見た「生」(光)の部分を経験する必要があったとのこと。

絶望を経験して希望を生きるようになったと。

 

 

絶望することが多い人生の中、

僕なりに希望を見つける力が身についたのかもしれない。

 

 

希望を見つけるだけではなく

「希望を持って前に進む姿を見せる」のが僕の役目だそう。

 

 

どんな絶望を経験したかはどうでもよくて、

「経験の中から培われたものを使って生きる姿を見せる」

のが役目だそう。

 

 

確かに絶望を経験しつくすと人は希望に向かい始める。

なぜならそこしか行き場がないから。

死んでしまう人もいるけどね。

 

 

それに絶望というのは人から見てもわからないものかもしれない。

僕はいつも淡々と生きているように見える人間だと思うから。

心の中は激情なんだけど。

 

 

「激情があるから生きていられた」

 

 

らしい。笑

もう激情も飽きたよ。