あっという間に2月10日。

 

 

気づいたら一つ前の1月11日の投稿が

もう1年前くらいに思えるほど遠い記憶でもあり

だいぶ未来の新しい見解のようにも思えた。

 

 

やっぱりブログに書き記しておくのは大事だと改めて思う。

本当に忘れ去ってしまうのだから。

 

 

先日僕とやまぴの共通の知人が公の場で

「私は親の死に目に会えないかもしれない覚悟はできている」

 

 

というようなことを言っていて僕たちはもやもやしてしまった。

 

 

もちろん僕たちは誰がどういう価値観で生きようが自由だと思っている点では共通している。

 

 

でもそれを「これくらいの覚悟をあなたたちもしなさいよ!」的にドヤ顔で言うのってどうなの?って思うんだよね。

 

 

その方はたくさんのクライアントさんを抱えるセラピストさん

と言えばいいのかな?

 

 

親の死に目に会えないかもしれない覚悟。。

親の死よりも目の前のクライアントさんを第一に考えるわ!とでもいいたいのだろうか?

それのどこがすごいのか?それのどこが素晴らしいのか?

 

 

僕たちには全くわからなかった。

 

 

しかもそれを兄弟に伝えて、「あなた、何かあったらよろしくね」と言ったらしいけれど、それが当の両親にも伝わって、両親に泣かれたと。

 

 

100歩譲って何かの喩えだとしてももっと他に喩えられることってあったんじゃないだろうかと思うし、100歩譲って心の中で思っている分には自由だからとも思った。

 

 

「親の死に目にも会えない」のが人前で偉そうに公言するほど凄い覚悟なんだろうか?

 

 

すでに母を不慮の事故で亡くしている僕が一番に思ったのは「親の死に目に会えるかどうかは誰にも決められることではない」ということ。

 

 

二番目に思ったのは「親の死に目に会えることが良いことで会えないことは悪いこと、不幸なこと」だと決めているように聞こえたこと。

 

 

三番目に思ったのは「両親を無駄に泣かせて何してるんだろうこの人」と。

 

 

やまぴももやもやしている様子だったのだけど、聞くと僕のことを考えていたと言う。「優のような人もいるのに、そういう軽はずみな発言をするのはどうかと思う」と思っていたらしい。

 

 

前回の記事を書いている僕が書く内容ではないのかもしれない。つまり「人に言うことは自分に言うこと」かもしれないけれど、「自分に何を言いたいのか」がわからないので、書いてみることにした。

 

 

「親の死に目に会えること」は確かに誰にも決められないと思う。でもやっぱり親の死に目に会えた方が良かったと思っている。ドラマなので最後に言葉を穏やかに交わすシーンは本心からいいなあと思う。僕はそれが母とはできなかったから。確かに理想の別れ方は僕の中にあるかもしれない。

 

 

僕が冷たい態度を取った2日後に亡くなった母。

そのお蔭で僕は10年以上苦しむことになってしまった。

もちろん僕のせいではないことは理性でわかるけど、生きていた時の一番最期のシーンがそれだとどうしても何度も何度も蘇ってしまう。

 

 

だから「無駄に泣かせる必要はない」と思うのかもしれない。だってきっと大切に思っているのだろうから。

「死に目に会えない覚悟を持って仕事をしている」のは人に言うことではない。両親に直接言わないにせよ、人の口に戸は立てられないのだから誰にも言うべきではないと僕は思う。

 

 

今の僕にはここまでが精一杯なので、ちょっとメッセージ受け取ってみるね。

僕にとってこの経験は一体なんだったのか?

 

 

あなたから見るとその方の発言は軽々しく聞こえたかもしれないけれど、

その方にとってはそうではなかった。ただそれだけ。

その方の軽々しい発言を通してあなた自身がかつて「死」を重く受け止めてきたことをもう一度見つめてみる機会になっています。

あなたが重く受け止めた「死」は今どう変化していますか?

その変化してきたことを伝えることによって癒される人がいるということに気づいてください。

 

 

なるほど。。重く受け止めてきた死が今はかつてほど重くないのは確か。それを語るって考えたことなかったな。

 

 

ちなみにやまぴにとってはなんだったのだろうか?

 

 

やまぴは誰よりも人の感情に敏感で、相手がどう思うかを考え抜いて

発言をする傾向があります。それは時にはやり過ぎる傾向もあるので、

そういう不謹慎な軽はずみな発言をする人に出会うのでしょう。

あなた(優)が思っていたほど傷ついていないことを知ることで

「実は人は思うほど傷ついていない」ことを知る体験になっています。

 

 

今回はその方の発言を一緒に聞いていたことにとても意味があります。

一緒に聞いてお互い感想を話すことができる場が与えられていたのです。

 

 

 

そういえば・・最近読んだ小説の中の登場人物が「試しに死んでみる」という書き置きを残して自殺をした場面があった。

 

 

それを読んだ僕は「それもありだよなあ」と思った。それくらい僕にとって「死」はそれほど重くないのかもしれない。

 

 

だからその方の覚悟に内心笑ってしまったのかもしれない。

「え?覚悟するとこそこなの?」って。笑

大したことないじゃん!って実は思っていたのかもしれない。

 

 

サイキック能力のある友人が言っていたのだけど、自殺する人は全員ではないけれど自覚なくふーっとあちらの世界に呼ばれるように死ぬことがあるらしい。

 

 

それを聞いた時僕も深く納得した。たぶんそうなんだろうなーと。

 

 

やまぴは僕よりもずっと繊細で傷つきやすい。

僕はもともと繊細で傷つきやすかったけれど、それをたくさん乗り越えてきた。

というよりも母の死が一番大きかった。

 

 

死は人より軽いのかもしれないけれど、これから先迎える死は「美しく丁寧に整えられた死」がいいと思う。

 

 

きちんとアイロンがかけられて綺麗に畳まれて引き出しにそっと入っている真っ白なシーツのように。これから先、いつか迎える身近な人の死はそうであって欲しいと願っているのは確か。

 

 

それは僕がかつて母の突然の死と残された最後の言葉によって心乱された人生があったからかもしれないけれど、だからこそ「美しく丁寧に整えられた死」がいいと思えている自分になれたのは良かったと思っている。

 

 

そしてそれはきっとこれからも変化していくのだと思う。

 

 

そうか。だから「死に目に会えない」とドヤ顔で公言する人にもやもやしてしまったのかもしれない。だからと言って「僕は母の死に目に会えませんでしたけど何か?」「死に目に会えるかどうかをあなたが決められるんですか?」と怒りを向けたいわけではない。

 

 

「死」というものへの経験の浅さとそれによる浅い発言がそこにあった。

浅いか深いかの判断は主観でしかないけれど。

 

 

少なくとももやもやした経験から「死」に対して特別な想いがあることには気づくことができたし、

やまぴはデリカシーのない言葉で傷つく人がいるということを知らない人をとても残念に思っていることと、意外と傷ついていない(今回は僕)ことも知ることになったのだろうと思う。