徳川圀順(くにゆき)水戸徳川家第13代当主 陸軍少佐(陸士22期)大日本史 | 論説 [ ● ]おおす新聞

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皇御國、第96代 後醍醐天皇 縁の大須(名古屋市)、藤田東湖「和文天祥正氣歌」天地正大氣 粹然鍾 神州。吉田松陰「士規七則」士道莫大於義 義因勇行 勇因義長。日本國領土 尖閣諸島徹底護持、七生報國

徳川圀順(とくがわ・くにゆき)
水戸徳川家第13代当主
陸軍少佐(陸軍士官学校第22期)
『大日本史』を完成させる(徳川光圀公から完成まで238年)





徳川圀順(とくがわ・くにゆき)
水戸徳川家第13代当主
明治19年・1886年12月13日 - 昭和44年・1969年11月17日
〔職〕貴族院議長
〔爵〕公爵
〔軍〕陸軍少佐(陸軍士官学校第22期)
徳川光圀以来編纂を続けていた歴史書『大日本史』を完成させる
字は子行、号は涛山、諡号は明公
男系男子直系卑属に某名古屋市会議員(男性)

(備考)
陸軍士官学校第44期 坂井直(さかい・なおし) 陸軍中尉 (二・二六決起)
http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-2294.html




弘道館http://www.koen.pref.ibaraki.jp/park/kodokan10.html
資料名:二大字「尊攘」(にだいじ「そんじょう」)
この書は、安政3年(1856)に徳川斉昭の命により、水戸藩医で能書家として知られていた松延年が書いたものです。(転載)
徳川斉昭(とくがわ・なりあき)は、江戸時代後期の大名(親藩)。常陸水戸藩の第9代藩主。江戸幕府第15代(最後)の将軍徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)の実父である。(転載 wiki)


徳川圀順 wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%9C%80%E9%A0%86 


大日本史 wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2



常磐神社(ときわじんじゃ) 住所:茨城県水戸市常磐町1-3-1
御祭神
高譲味道根之命(たかゆずるうましみちね の みこと) -- 徳川光圀(水戸藩2代藩主、義公)
押健男国之御楯命(おしたけおくにのみたて の みこと) -- 徳川斉昭(水戸藩9代藩主、烈公)
神事の国旗制定祈念祭は、徳川斉昭が日本の国旗である日の丸を定めたことに因むものである。
大日本史』の編纂と完成
http://www.komonsan.jp/mitukuni-and-nariaki/post_29.html 

常磐神社
【日本の国旗について】〜国民として知っておくべきこと〜
(平成26年8月6日 旧暦7月11日、本日の「国旗祭」斎行に際して)
https://www.facebook.com/tokiwajinja/notes 


湊川神社(みなとがわじんじゃ) 住所:兵庫県神戸市多聞3-1-1
御祭神 楠木正成公(大楠公)
http://www.minatogawajinja.or.jp/history/
 
御墓所(ごぼしょ) 史蹟:楠木正成墓碑(くすのき・まさしげ ぼひ)

正成公以下御一族等の墓所として、境内東南隅に位置します(国指定文化財史蹟)。

元禄五年(1692)に、権中納言(ごんちゅうなごん)徳川光圀公水戸黄門)は、家臣佐々介三郎宗淳(さっさ・すけさぶろうむねきよ)を、この地に遣(つか)わして碑石を建て、光圀公みずから表面の「嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしん・なんしのはか)」の文字を書き、裏面には明の遺臣朱舜水(いしん・しゅしゅんすい)の作った賛文を、岡村元春(おかむら・もとはる)に書かせて、これに刻ませました。

この墓碑の建立によって、正成公の御盛徳は大いに宣揚されるとともに、幕末勤王思想の発展を助け、明治維新への力強い精神的指導力となったのです。

即ち幕末から維新にかけて、頼山陽(らい・さんよう)・吉田松陰(よしだ・しょういん)・真木保臣(まき・やすおみ)・三条実美(さんじょう・さねとみ)・坂本龍馬(さかもと・りょうま)・高杉晋作(たかすぎ・しんさく)・西郷隆盛(さいごう・たかもり)・大久保利通(おおくぼ・としみち)・木戸孝允(きど・たかよし)・伊藤博文(いとう・ひろぶみ)等々は、みなこの墓前にぬかづいて至誠を誓い国事に奔走したのです。(転載)





富士浅間神社 名古屋市中区大須2-17-35
末社 一番左 湊川社 御祭神 楠木正成公


富士浅間神社 末社 湊川社 御祭神 楠木正成公amba.to/14b3s1u
皇紀2676年・平成28年12月23日


楠木正成公 七生報國
楠木正成公(くすのき まさしげ公)は、 後醍醐天皇に殉じ、湊川(兵庫県神戸市)で、弟・正季公(まさすえ)と「七生報國」を誓って刺し違え殉節(皇紀1996年・西暦1336年5月25日、新暦7月12日)された尊皇の士。その志は明治維新の志士・吉田松陰先生(皇紀2519年・安政6年・西暦1859年10月27日、斬首刑。靖國神社の御祭神)に熱烈に受け継がれ、また、坂本龍馬(靖國神社の御祭神)、高杉晋作(靖國神社の御祭神)、西郷隆盛大久保利通木戸孝充伊藤博文など(敬称略)維新の志士が、楠木正成公の墓碑(現・湊川神社境内)に額づいて国事に奔走された。 
先の大東亜聖戦では、楠木正成公>の旗印である「非理法権天」が、沖縄特攻の戦艦大和に、人間魚雷「回天」を搭載した伊号潜水艦に掲げられた。
戦艦大和 沖縄特攻(菊水一号作戦) 
菊水作戦
戦艦大和に関して記載したブログ⇒http://amba.to/ZYVChS  http://amba.to/12glQlo

楠木正成公 七生報國
正季公「七生まで人間に生れて朝敵を滅ぼしたい」

正成公「いつかこの本懐を達せん」と誓った。

太平記・楠木正成、湊川での最期

7:40~当該動画の語句:楠木正季公(くすのき まさすえ。楠木正成公の弟)「次の世も、いや、七生(しちしょう)までも生まれ変わって、朝敵を滅ぼしとうござりまする」

楠公精神http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/tokko-sisou.htm(画像転載)
七生報國

七生報國の鉢巻きをされた回天特別攻撃隊の御英霊は米艦艇に対し特攻を敢行、散華されました。
鎮魂

楠木正成公https://youtu.be/g1EIArWgpwA

建武3年5月25日(新暦に直すと1336年7月4日)、楠木正成公は湊川の戦いで足利直義の軍と戦い敗れて、弟の正季公と「七生報國」を誓い、刺し違え自害。享年43
南北朝の争いが北朝側の勝利に終わると、南朝側に尽くして自害した楠木正成公は朝敵とされてしまった。永禄2年(1559年)、楠木正成公の子孫と称した楠木正虎が朝敵の赦免を嘆願し、 正親町天皇の勅免を受けて正成は朝敵でなくなった(没後223年後)。(ウィキ等 転載編集)


(楠木正成公の死に際しての足利尊氏方の記録)
まことに賢才武略の勇士とも
かようの者を申すべき
敵も味方も
惜しまぬ人ぞなかりける
「梅松論」より


楠木正成公の御遺徳は、明治維新で顕在化し、日本が欧米列強諸国の植民地になることなく独立国家として、現在に至るまで存在していることの精神的支柱、行動の原点たらしめたといえる。先の大東亜聖戦で、楠木正成公の旗印である「非理法権天」が、沖縄特攻の戦艦大和に、人間魚雷「回天」を搭載した伊号潜水艦に掲げられた。


回天特別攻撃隊菊水隊



人間魚雷「回天」 回天記念館(山口県周南市岐山通1-1


回天碑 (回天記念館)
回天特別攻撃隊http://amba.to/1cgrz0Z
回天 大津島(おおづしま)http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-1662.html


戦艦大和 沖縄特攻(菊水一号作戦) 
菊水作戦
戦艦大和に関して記載したブログ⇒http://amba.to/ZYVChS  http://amba.to/12glQlo

非理法権天 回天楠公社前(岐阜県下呂市下呂町)
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kaiten-gero.htm





おおす新聞 2676(28)-08-25 22:15 配信






第96代 後醍醐天皇 縁の大須(名古屋市)


大須は尊皇の街 萬世一系乃皇統護持

古事記1300年 大須観音展



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