高校時代、明けても暮れても貪るように読んでいた太宰治。新潮文庫の黒い表紙の太宰シリーズは全部買ってすべて読んだ。太宰の文章になぜあんなにも惹きつけられたのだろう。

 

自分の青春時代を蘇らせるような気持ちで今日は久しぶりに「走れメロス」を読んだ。短編だから20分程度で読める。文庫本の欄外には当時読みながら感じたことの走り書きがいっぱい書いてある。

 

主要な登場人物は3人。主人公メロス、その親友セリヌンティウス、そして人間不信のゆえに暴虐の限りを尽くしていた悪王ディオニスだ。太宰の作品には作者自身が投影された一人称小説が多いが、この作品は古伝説をもとにした端正な物語の形式を採っている。

 

古伝説とはギリシアの伝説「ダーモンとフィジアス」(ギリシア語 Δάμων και Φιντίας, 英語 Damon and Pythias)だ。僭主ディオニュシオスから死刑を宣告されたフィジアスが友人ダーモンを人質として置いていくことで一時的に釈放を許され、身辺整理をしに一旦出た後、約束を守って戻り、そのことに僭主ディオニュシオスが感動するという話だ。

 

この伝説をもとにドイツの詩人シラー(Schiller, 太宰はシルレルと呼称)が友情の美徳を謳ったのが「担保」(ドイツ語 Die Bürgschaft, 英語 The Pledge)と題された長編詩である。ギリシアの古伝説に具体的なエピソードが追加された壮大な叙事詩となっている。

 

この詩の舞台は、古代ギリシャのポリス、シラキュース。ダーモンは陰惨な暴君ディオニュシウスの殺害に失敗した後、捕らえられ死刑を宣告されるが、妹と婚約者との結婚式のため死刑を遅らせてほしいと要求する。ディオニュシウスは、ダーモンの帰還の担保として友人を人質にすることを条件に3日間の延長を許可する。彼が時間通りに戻らなかったら、彼の友人は罰を受けることになるが、ダーモンは罰を受けずに済む。ディオニュシウスが驚いたことには、ダーモンは自らの処刑に戻る途中、洪水、強盗団の襲撃、太陽が照りつけ、水不足に見舞われたにもかかわらず、土壇場で友人を救うために帰還を果たす。己の行為を恥じた暴君は、忠誠の真価を認め、彼らの友人となりたいと求める。

 

以上がシラーの詩「担保」のあらすじだが、これを登場人物の名前を改めればほぼ太宰の「走れメロス」のあらすじと読んでも差し支えない。それならいったいどこに太宰のオリジナリティがあるのか。それは圧倒的に登場人物の心理描写の繊細さだ。特に王ディオニスが人間不信を語る生々しさに驚かされる。メロス、セリヌンティウスに次ぐ第三の主人公と言っても過言でないほど、太宰はディオニスの存在感を高めている。メロスが王城に乗り込んで王と対面したときに王が吐いた台詞を集めてみると、こうだ。


「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」
「わしだって、平和を望んでいるのだが。」
「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、磔(はりつけ)になってから、泣いて詫(わ)びたって聞かぬぞ。」

 

率直に自らを「孤独」だと吐露する王の言葉には、彼を単に英雄伝説に登場しがちな非人間的な悪人に留まらせない、とても人間的なリアリティをそこに託している。定めし、信じた人からの裏切りに何度も遭遇して人間不信が骨身に染みているのであろうか。そうしてみると、これこそ太宰がいつも一人称で見せる人間不信の苦悩のつぶやきであって、今作ではそれを第三人称の王ディオニスに投影しているように思える。ディオニスは太宰治その人なのだ。

 
(その2につづく)