共通科目「言語学入門」には法学部から理工学部まで全学から200名近い学生が受講しています。初回の講義では世界の言語地図を見せながら、語族・語派の系統の話題や類型論の話題を少ししました。関連する言語政策上の話題もいろいろと話します。

 

例えば、フィリピンではかつての植民地時代の影響で英語とスペイン語が公用語だった時期がありますが、1987年の憲法で現地語であるタガログ語を元にしたフィリピン語が公用語と定められました。この辺のことはさらっと口頭で話します。

 

それで台湾の言語のこともさらっと話しました。中国には北京語以外にも広東語、福建語、客家語、上海語などをはじめとする多数の言語があり、相互に通じないほどの隔たりがあるため、方言ではなく別言語とされています。

 

台湾は福建省の対岸にありますので、福建語とほぼ近い台湾語という現地語がありますが、現在の台湾を実質的に統治している中華民国政府の公用語は北京語となっています。

 

この授業の終了後にある学生がこんな質問をしました。質疑応答の要旨を記します。

 

Q:国共内戦当時の中華民国の首都は南京にあったはずだ。国民党が南京から台湾に逃げてきたのなら、なぜ台湾に南京の言語ではなく、北京語を持ち込んだのか?

A:中華民国政府は南京政府時代も北京語を官話(国家の標準語)とする政策を取っていたから、それをそのまま台湾に持ち込んだ。

 

簡単に中国の歴史を振り返りながら少し補足したいと思います。

 

1912年、革命家・孫文の活躍によって大陸に中華民国が建国されました。孫文は国民党を結党し、政府を北京に置きます。そして言語政策においては国家全体を北京官話で統一する方針を決め、全国土に徹底します。その後、1928年に政府を南京に移します。南京の現地語は上海語に近い呉語でしたが、中華民国政府は北京官話を国家の標準語とする政策を変えませんでした。

 

中華民国の北京政府時代、台湾は中華民国の領土ではありませんでした。中国が清国だった時代の1895年、日清戦争で日本は勝利し、戦勝国日本は清国から台湾を割譲し、日本の領土としました。そして、日本の台湾統治は第二次世界大戦で日本が敗れる1945年まで50年間つづきます。この間の台湾の教育はすべて日本語で行われますので、当時の台湾の人々は現地語(台湾語のほかにも多数あります。後述します)と日本語の二言語併用状態となります。

 

1945年に日本が台湾の統治権を手放した後、台湾は初めて中華民国政府の統治下に入り、中華民国台湾省となります。このときの中華民国の首都は南京でした。このときから日本語教育に代わって官話教育の名で北京語教育が始まります。

 

さらに1949年、中華民国の政権を握っていた蒋介石率いる中国国民党は、毛沢東率いる共産党との国共内戦に敗れます。共産党は中華人民共和国政府を北京に樹立し、一方の敗れた国民党の蒋介石たちは台湾島に逃げ込み、台北を中華民国の臨時首都とし、そこに臨時政府を置きます。このときから「二つの中国」が大陸と台湾に並び立つ状況が始まりました。台湾の政権を国民党が握っていた最近まで、中華民国政府は首都を南京と公称し、台北はあくまでも臨時首都だとしていました。独立志向の強い民進党が政権を担うようになってからは台北を事実上の首都として認めるようになりました。

 

もともと南京に政府を置いていた時代から北京語を官話とする標準語政策を取っていた中華民国政府は台北に臨時政府を移してからもその方針を一貫して変えませんでした。ゆえに今も台湾の標準語は北京語なのです。ただし、台湾の人々は「北京語」ではなく、単に「国語」と呼ぶか「華語」「台湾華語」と呼んでいます。

 

大陸からやってきた外省人は北京語だけを話しますが、もともと台湾にいた本省人は現地語と北京語の二言語を併用します。現地は福建省に近い台湾語のほかに、タガログ語などと同じオーストロネシア語族に属するアタヤル語、パイワン語、ツォウ語なども話されていて、台湾が実は多民族地域であったことを物語っています。政権が国民党から民進党に移った今もこの北京語を公用語とする政策は変わっていません。ただし、現在の台湾での公共放送では台湾語、客家語も補助的に用いられているそうです。