佐藤優氏による「AERA」連載「池田大作研究-世界宗教への道を追う」は2020年10月に連載43回をもって完結し、単行本として発刊されました。本ブログにはこれまでに連載第1回~第15回(単行本の第1章~第3章に相当)と単行本第4章~第7章の読後記を掲載しました。山岡政紀個人サイトでは整理して体裁を整えて掲載しております。
読後記『池田大作研究 世界宗教への道を追う』佐藤優著

 

今回は第八章への読後記を掲載してまいります。

第八章「宗門との訣別――日蓮正宗宗門というくびき」(連載第39~42回)

宗門問題を「誓願」の章から読み取る


創価学会は長年にわたり日蓮正宗(以下、宗門)の信徒団体として、宗門との僧俗和合の姿勢を貫き、寺院の寄進などの赤誠を尽くしてきた。しかし、1977年頃から惹起した第一次宗門問題で学会と宗門との間に軋轢が生じ、そのことの責任を取る形で池田は1979年に創価学会会長を勇退した。さらに1990年の年末には宗門が池田を総講頭罷免とし、1991年11月29日には学会に対して破門を通告。学会と宗門は完全に訣別するに至った。池田はこの日を「魂の独立記念日」として、「大勝利宣言」を行う。

 

池田はライフワークと定めた小説『新・人間革命』を2018年9月に完結させるに当たり、その最終章「誓願」の章(第三十巻下)のトピックに二つの柱を置いた。一つは世界広布への飛翔であり、もう一つは宗門との訣別であった。『新・人間革命』は池田にとって自伝的記録書でもあるが、同時に未来の広宣流布の方程式を示した指南書でもあった。だからこそこの宗門問題については事実経過だけでなく、より本質的な真実を書き残そうとしたのだ。

 

本書『池田大作研究』の執筆に全力を尽くしてきた佐藤優もまた、これに呼応する形で、本書の掉尾を飾る第八章および終章のテーマにこの宗門問題を選んだ。そこに表れた池田の内在的論理こそ創価学会が世界宗教の条件を充たしていることの証だと佐藤は考えている。必然的に本章では「誓願」の章から長文を引用している。それは、佐藤の「誓願」の章に対する敬意の表れでもあり、本書の読者にも池田の内在的論理に直接触れさせようとしたものではないだろうか。

権威をかざす者とそれに服従しない者の闘い

 夕張炭労問題、大阪事件、言論・出版問題と、どれを取っても創価学会を誹謗・攻撃する非寛容の勢力に対して学会側が寛容の言論戦で抵抗し抜いた闘争であったが、宗門問題もまた同じ図式であった。第一次宗門問題もまた宗門僧による学会攻撃から始まっている。

 

 本書では、1978年当時の第一次宗門問題について小説『新・人間革命』からの引用をもとに考察しているが、下記の文章はその抜粋である。

 

 「このころ、またもや各地で、宗門僧による学会攻撃が繰り返されるようになっていた」「宗門僧たちは学会攻撃の材料探しに血眼になっていた」「(全国檀徒総会に)二百三十人の僧、五千人ほどの檀徒が集い、学会を謗法と決めつけ、謗法に対しては、和解も手打ち式もないなどと対決姿勢を打ち出したのだ」(池田大作『新・人間革命』第三十巻上「大山」)

 

 当時、創価学会員は池田会長の指導のもと、日蓮仏法の法華経の精神を現代に蘇らせ、人々の生きる希望へと転換し、その歓喜が波動となって会員も急激に増加していた。それに伴って各地の会館建設も進んだ。会員が会員を指導激励する組織体制も整備されていった。在家信徒である創価学会員が自ら勤行・唱題し、日蓮の御書も読み、指導激励もしていくという体制が築かれていくなかで、宗門の存在意義が軽視されていると感じた僧侶たちが、僧侶の権威をかざして学会員を隷属させようとしたのが学会攻撃の発端だった。それでも学会側は誠意をもって対応し、寺院の寄進をはじめとする外護の赤誠は尽くし続けた。「大山」の章の続きに池田は「学会は、和合のために、どこまでも耐忍と寛容で臨み、神経をすり減らすようにして宗門に対応し続けた」(前掲書)と記している。

 

 しかし、副会長・福島源次郎の不規則発言が宗門に学会への攻撃材料を与えてしまうなど、状況が悪化するなか、池田は事態の収拾のため会長を勇退した。その後の池田は創価学会インタナショナル会長として、世界広布に奔走すると共に、ゴルバチョフ氏をはじめとする海外要人との友好交流にも力を注いでいく。

 

 第二次宗門問題は1990年に惹起するが、今度は公式に宗門側から学会への攻撃が始まっている。学会の本部幹部会での池田のスピーチに問題があるとして、宗門側から「質問書」を寄こしてきたのだ。これに対して学会側は面談での対話を求めたが、宗門はこれを拒否。やむなく学会側は僧俗和合を目指すために思い悩んでいた事柄や疑問を「お伺い文書」として提出。その後、宗門側は池田の総講頭罷免などの懲罰的な措置を通告。対立は決定的となった。

 

これら一連の経過のどれを見ても宗門側の学会に対する態度は高圧的で、その所作や言動からは権威主義があふれ出ていた。それに対して学会は、池田の人柄そのままに、常に誠意を尽くして忍耐強く謙虚に対応してきた。しかし、宗門がその誤りに気付いて不当な攻撃をやめない以上、学会がその権威主義に服従してしまうことは日蓮仏法の本義に照らしてどうしてもできなかった。ゆえに学会は宗門と訣別する選択しかなかった。

 

佐藤は宗門問題を単なる教団内の意見対立やトラブルといった次元では捉えず、信仰の本質の次元から考察している。本章では、日蓮仏法が信奉する法華経が、二乗作仏や女人成仏を説いて、一切衆生の絶対平等を説いた経典であることを創価学会公式サイトから引用している。日蓮仏法の本義に照らせば、学会が権威主義に従わないのは必然だということである。佐藤は「僧侶が『上』、一般信徒は『下』とする宗門の宗教観と、そのようなヒエラルキーを認めない民衆宗教である創価学会の基本的価値観の対立」(506ページ)と総括する。

 

そしてここにキリスト教がたどった歴史とのアナロジーを見る。キリスト教もまた中世において教会が権威主義化し、司祭が「上」、信徒は「下」とする差別主義に陥っており、十六世紀のマルティン・ルターの宗教改革によって「万人祭司」という平等の価値観が生まれたという(535ページ)。佐藤は「創価学会は、仏教ルネサンス(宗教改革)に舵を切ったのである」(548ページ)としている。聖職者が権威主義に陥ることも、民衆主体の宗教改革が起きることも、歴史の必然なのかもしれない。

師から受け継いだ判断基準

 池田は宗門に対して誠意を尽くしつつも、信仰の本義に関わる部分ではいっさい妥協しなかった。佐藤は、池田がその精神を師匠である戸田城聖から受け継いだと捉えている。ここでは、それに関連する池田の文言を少し補足したい。

 

 まず、戸田が宗門僧侶に対して無条件の権威を認めることはせず、その行動によって尊敬にも軽蔑にも値するとする是々非々の態度であったことを、戸田の言葉の回想として記している。下記はその抜粋である。

 

「折伏もしないで折伏する信者にケチをつける坊主は糞坊主だ。尊敬される資格もないくせして大聖人の御袖の下にかくれて尊敬されたがって居る坊主は狐坊主だ。御布施ばかりほしがる坊主は乞食坊主だ」
「御僧侶を尊び、悪侶はいましめ、悪坊主を破り、宗団を外敵より守って、僧俗一体たらんと願い、日蓮正宗教団を命がけで守らなくてはならぬ」(池田大作『新・人間革命』第八巻「宝剣」)

 

 戸田は宗門の真の興隆のためには、僧侶らが学会員と同じ心で広宣流布に闘い、同じように折伏にも取り組み、上下関係ではなく、共に支え合っていく姿を望んでいた。しかし、仏法の法理に照らして、必ずしもそのようにはならないことを予見もしていた。戸田は会長就任後の御書講義で次のように述べている。

 

「釈尊の時代の六師外道が、大聖人様が三大秘法を広宣流布するにあたって、僧侶になって生まれてきて敵対しているのであると。いま、わが創価学会が広宣流布をして、日本民衆を救わんと立つにあたって、それを邪魔するのは大聖人様の時に邪魔した僧侶が、いま日蓮宗等の仮面をかぶって生まれてきているのです。(中略)こんど、それではどうなるのかというと、あのような連中が死ぬと、こんどは日蓮正宗のなかに生まれてくるのです」(『戸田城聖全集』第六巻「佐渡御書講義」、『池田大作全集』第七十四巻「第二十回全国青年部幹部会スピーチ」にも引用あり)

 

池田は恩師のこれらの言葉を未来への指針として胸に刻んでいたがゆえに、宗門に徹底的に追い詰められても妥協しなかったのである。第一次宗門問題の際に池田が会長を勇退し、一旦妥協したように見えたのは、宗門に対する誠実で謙虚な姿勢を限界まで貫こうとしたゆえでもあり、同時に限界を超えんとする時には迷いなく決断するとの確信があったからでもある。佐藤は、池田のこの姿勢を「一歩後退、二歩前進」(553ページ)と評している。大阪事件の際に一旦罪を認めたことに対して評したのと同じ言葉だった。

宗門と学会の道は既に戦時中に分かれていた

戸田の僧侶に対する厳しく辛辣な文言は枚挙に暇がないが、その原点となっているのは、間違いなく戦時中の神札問題であった。創価学会初代会長牧口常三郎とその弟子戸田は、戦時中に軍部から神札を祀るようにとの命令を拒否したことで治安維持法違反と不敬罪により逮捕投獄され、牧口は獄中で殉死した。弾圧の首謀者は軍部だったが、宗門はその場に居合わせながら牧口と戸田に妥協を勧め、結局見殺しにしている。そればかりか、軍部から宗門が同類に見られることを恐れて二人に登山禁止処分まで下している。関連個所を『人間革命』から引用する。

 

「日恭猊下、日亨御隠尊猊下の前で、宗門の庶務部長から、こう言い渡されたのだ。『学会も、一応、神札を受けるようにしてはどうか』私は、一瞬、わが耳を疑った。先生は、深く頭を垂れて聞いておられた。そして、最後に威儀を正して、決然と、こう言われた。『承服いたしかねます。神札は、絶対に受けません』その言葉は、今も私の耳朶に焼き付いている。この一言が、学会の命運を分け、殉難の道へ、死身弘法の大聖人門下の誉れある正道へと、学会を導いたのだ」
「程なく、牧口先生も、私も、特高警察に逮捕され、宗門からは、学会は登山を禁じられた。日蓮大聖人の御遺命を守り、神札を受けなかったがためにだ。権力の威嚇が、どれほどの恐怖となるか、このことからもわかるだろう。しかし、先生は、その権力に敢然と立ち向かわれ、獄死された。先生なくば、学会なくば、大聖人の御精神は、富士の清流は、途絶えたのだ。これはどうしようもない事実だ。学会が、仏意仏勅の団体なるゆえんもここにある」
(池田大作『人間革命』十一巻「大阪」『池田大作全集』第百四十九巻)

 

このように牧口と戸田にとっては宗門や法主が行動規範ではなく、たとえ法主に逆らってでも信仰の本義に基づく選択を、この時点で既にしていたのである。しかも、それは命懸けの真剣勝負の選択だった。だからこそ戸田は、精神において富士の清流(日蓮正宗の本山大石寺は富士山麓にあり、かつては日蓮宗富士派とも称された)は途絶えたと、既に生前に述べていたのだ。

 

それでも戦後の戸田が宗門との僧俗和合への希望を捨てなかったのは、権威主義を捨てて自らの過ちを自覚し、創価学会と共に歩む宗門像を目指す人が宗門にもいたからである。その一人が、戸田の発願に応じて『日蓮大聖人御書全集』の編纂に尽力した碩学の堀日亨元法主であった。上の引用にもあったように日亨は神札の場に同席し、牧口と戸田を見殺しにした一人であったが、戦後にそのことを心から悔い、牧口と戸田に助けられたと語り、創価学会への感謝と敬意を隠さなかった。

 

「この堀日亨上人が、次のようにおっしゃっている。『御本尊様も本当に日の目を見たのは、学会が出現してからだ。学会のお陰で御本尊様の本当の力が出るようになったことは誠にありがたい』と」(『池田大作全集』第九十九巻「創立七十五周年記念各部代表協議会」スピーチ2005.9.27)
「この日亨上人が、しみじみと戸田先生に『あなたがいなかったら、日蓮正宗はつぶれてましたよ』と言われていたことが私たちの心に深く焼きついている。」(『池田大作全集』第七十二巻「記念関西支部長会」スピーチ1989.2.2)

 

同じことは戸田会長在任中に宗務総監・法主を務めた堀米日淳にも当てはまった。戦後の宗門が財政難で苦しみ、本山大石寺の観光地化を計画した際に、それに猛反対したのが戸田だった。戸田はそれ契機に学会員が大石寺に参拝する登山会を計画し、本山の財政を支えた。日淳は観光地化計画の過ちを認め、戸田への感謝と尊敬を隠さず、終生学会を賛嘆し続けた。

 

「戸田先生には、また創価学会には大恩があるのです。……登山会もそうでした。そのおかげで、総本山は、観光地化せずにすんだのです」振り絞るような声が、伸一の胸を貫いた。
戦後、宗門は、農地改革によって土地の多くを失い、財政難に陥っていた。その窮地を脱するために、総本山大石寺を観光地にしようという話が持ち上がったのである。(中略)
これには当時、宗務総監だった日淳上人も出席している。席上、観光地化に同意する旨を述べているが、その心中は、断腸の思いであったにちがいない。
 この計画を聞き、「総本山を絶対に観光地にしてはならない」と、断固、反対したのが戸田城聖だった。彼は、日興上人の「謗法の供養を請く可からざる事」との御遺誡のうえから、なんとしても、これに同意するわけにはいかなかった。(池田大作『新・人間革命』第二巻「勇舞」)

「日淳上人は明言されている。『大本尊より師弟の道は生じ、その法水は流れて学会の上に伝わりつつあると信ずるのであります。それでありますから、そこに種々なる利益功徳を生ずるのであります』」(「秋季彼岸勤行法要」スピーチ 聖教新聞2008.9.23)

 

このように見ると、日蓮正宗宗門と創価学会の歴史は、宗門の指示や方針に学会が従わなかったことによって信仰の命脈が保たれてきた事案の繰り返しだったとも言える。そして、日亨や日淳のように、そのことの意義を自覚し、権威主義を捨てて学会と共に歩む法主の存在によって、辛うじて僧俗和合は保たれていたのだ。しかし、そうではない権威主義を振りかざす法主が出現する可能性も戸田は十分に予見していたことは、先述の「佐渡御書講義」での言葉に現われている。

 

戸田が会長に就任した翌年(1952年)に、創価学会は日蓮正宗とは別の独自の宗教法人格を取得している。戸田は創価学会が広宣流布へ前進していくなかでいかなる未来にも対応していけるように、先手を打っていたとも言える。今、戸田が存命であったならば、どうしていたか。池田にはそれがありありと見えていたはずだ。池田は師弟不二であるがゆえにいっさいの迷いなく、妥協を排して訣別の道に進んだのである。