目を閉じれば人懐こい笑顔が浮かびます。心にぽっかり穴が開いたようなこの1年を過ごしてきました。

昨年(2020年)1月11日夜、創価大学パイオニア吹奏楽団名誉音楽監督である磯貝富治男先生の訃報が突然届きました。18年前、磯貝先生を私に紹介してくれた親友のコントラバス奏者・熊谷勇人氏から携帯電話に一報が入ったのです。熊谷氏はその日、プロアマ混成の民間オーケストラ「関西21世紀交響楽団」の一員として定期演奏会に臨み、本番を終えたところでした。
そして、その日の演奏会に指揮者として出演される予定だった磯貝先生が、直前のゲネプロ中に指揮台の上で倒れ、緊急搬送されるもそのまま帰らぬ人となった、と。享年67歳。あまりに急な訃報に驚き、後日の葬儀に兵庫まで駆けつけました。葬儀場でお会いした磯貝先生は、大切な奥様、お子様たちに囲まれて、いつもの泰然自若としたお顔のまま眠っておられました。

創価大学パイオニア吹奏楽団としては2002年12月の定期演奏会で初めて客演指揮者としてお迎えし、翌年2003年2月には正式に音楽監督・常任指揮者に就任していただきました。以来、2018年3月に退任されるまでの15年間、全力で指導に当たってくださいました。私自身も多くの時間を磯貝先生と共に過ごし、様々な泣き笑いも共に経験しました。2003年の宇都宮での全国大会、2005年の台湾演奏旅行、2007年の長野での全国大会にもご一緒しました。顧問として多くの指導者と接してきましたが、これほどまでにパイオニア吹奏楽団を愛し、学生たちを愛した方はいませんでした。そして逝去から1年経った今もまぶたを閉じると磯貝先生の人懐っこい笑顔が浮かんで参ります。磯貝先生はご家族の心のなかに生き、私の心のなかに生き続けています。その証として、少々長くなりますが、追悼文を記したいと思います。

マエストロ・磯貝富治男

磯貝富治男先生は西日本を代表するプロオーケストラである大阪フィルハーモニー交響楽団(大フィル)の首席トロンボーン奏者を長く務められました。大阪音楽大学をご卒業後にドイツ留学を経て大フィルに入団されて以降は1976年から退団される2013年までずっとトロンボーンの1番を吹いておられました。そのトロンボーンの腕前の一流は広く知られていました。

大阪フィルハーモニー交響楽団の公式ブログには大フィル時代を回想してこのように記されています。
「恵まれた音楽人生を歩んできたと思います。大阪フィルを辞める瞬間まで、第一線でしかも1番を吹かせて頂くというのはとても光栄な事です。と同時に、言葉では言い尽くせないほどのプレッシャーや大変な思いもしてきました。何といっても、50歳を超えてからの10数年、大病を患ってからの5年はきつかった。30代、40代で当たり前にオケでちゃんと吹けた事が、50代になるとちゃんと吹く事が大変で・・・これは経験した者にしかワカラナイと思います」

磯貝先生のトロンボーン演奏を論評することは素人の私には全くできませんが、その音程やリズムの完璧なまでの正確さはそんな私にもよくわかりました。そして、ダイナミックスレンジ(音量の大小)や表現の幅が豊かで柔軟で、指揮者のイメージ通りの音をそのまま表現できる奏者として一流の指揮者陣に評価されていたことも伺いました。名立たる大フィルの名演奏の録音に残る磯貝先生のトロンボーン・ソロは今も聴くことができます。

そんなマエストロ・磯貝先生の能力の高さは吹奏楽指導のなかでも存分に活かされていました。まず、耳がとてもよく、楽団のチューニングも磯貝先生が音程の微妙な上げ下げを指示されるだけでピタッと合っていくのです。奏者に対しても、チューナーに頼らずに自分の耳で音を合わせていくことをいつも指導されていました。

指揮者・磯貝先生は行進曲を得意としましたが、それを支えていたのはテンポの正確さでした。この演奏を♪=120で演奏しようと決めたら、全くずれることなく最後までそのテンポで指揮し終えられるのです。コンクールでは制限時間があるため、タイムキーパーが計測する演奏時間が、毎回ほとんど同じなのでいつも驚いていました。よし、今の演奏よりも5秒短縮しよう、と磯貝先生が言ってやり直すと、聴いている方は同じようにしか聞こえなくても、時計を見ると確かに5秒早く終わっていました。

このように演奏技術という観点から見たときの磯貝先生はとても繊細で、正確さ、丁寧さを極限まで追求するこだわりを持っていました。そして、その一方で、目指す音楽は常に力強く、勇気にあふれた音楽を追求していました。繊細さと豪快さの両立を目指すのが磯貝先生の音楽でした。

繊細さと力強さの両立

初めて磯貝先生をパイオニア吹奏楽団の客演指揮者に迎えたのは2002年12月の定期演奏会でした。メイン曲として学生たちが選んだのはチャイコフスキー作曲「序曲1812年」。このときパイオニア吹奏楽団は前任の常任指揮者と契約を解消し、指揮者不在のまま定期演奏会を迎えようとしていました。先の見えない不安のなか、学生たちのなかから磯貝先生をお招きしたいとの声が上がりました。そのとき磯貝先生は既に創価学会関西吹奏楽団の指揮者として7度の全国大会金賞をもたらした実績でも知られていましたが、それ以上に、磯貝先生の音楽性と人柄に接したことのある関西出身の学生たちからの強い要望が出ていました。

私は学生たちの代理として親友・熊谷勇人氏から磯貝先生の連絡先を紹介してもらい、早速大阪へ飛んでお会いしました。初対面は阪急電車の某駅前でした。創価大学パイオニア吹奏楽団が当時苦境にあったことを率直にお話ししました。そして、私がお願いしたことは、「学生たちは今、創価の音楽とは何かを模索し、飢えています。どうか彼らに創価の音楽を教えてやっていただけないでしょうか」と。じっくり話を聞いてくださった磯貝先生は、「わかりました。ほな、客演だけやったらいっぺんやってみましょか」と応じてくださったのです。

定演一か月前の11月に待望の磯貝先生を迎えて「序曲1812年」の初リハーサルをやりました。指揮棒を使わない両手での柔らかい指揮は奏者をぐっと引き込みます。練習の時にうまく合わなかったサウンドがピタリと合っていきます。奏者たちが心身共に温まってくると、磯貝先生は初対面であることを忘れて、強い言葉を学生たちに投げかけます。

それは音程やリズムを合わせろといった技術指導の言葉ではありませんでした。「序曲1812年」終盤のクライマックスで全員の強奏となるところでは、「もっと本気の音を出せ!」、「俺らは何があっても絶対に負けへんていう音を出すんや!!」、「マウスピースの脇から血しぶきがブシューッて飛ぶぐらい、出しきらんかい!!!」と。それは、学生たちのなかにあった不安や弱気をすべて吹き飛ばす気迫のレッスンでした。

創価の音楽を模索し、飢えていた学生たちは感激し、演奏しながら涙する者もいました。迎えた12月の定期演奏会は大感動の歴史に残る演奏会となりました。メイン曲「序曲1812年」はパイオニア吹奏楽団の新たな歴史を開く序曲のようでした。磯貝先生を常任指揮者に迎えたいと熱望する学生たちの声は一気に高まりました。関西在住の磯貝先生を東京の創価大学に招聘することは決して簡単なことではありませんでした。それでも磯貝先生自身が学生たちの熱意と可能性に賭けようと決意してくださり、2003年2月、パイオニア吹奏楽団の音楽監督・常任指揮者に就任されたのです。

磯貝先生と創価学会音楽隊

磯貝先生は創価学会音楽隊の歴史を変えた功労者でもありました。創価学会音楽隊は1954年に結成しています。当時青年部の幹部だった池田大作先生が当時の戸田城聖会長に進言して結成されました。音楽には人々を勇気づける力がある。青年の息吹を鼓舞する音楽隊を作りたいと申し出た池田先生に対し、戸田先生は「大作がやるんだったら、やりたまえ!」と励まし、師弟の手づくりで音楽隊は結成されたのです。以来、創価学会音楽隊に所属する各地の吹奏楽団は、楽器演奏の経験がある男子青年部員が集まって結成され、学会の文化祭や地域の行事などで活躍してきました。

私は創価学園生だった中学高校時代、モーツァルトやチャイコフスキーなどのクラシック音楽に没頭し、世界のオーケストラの名演奏に魅了されていました。その頃も創価学会音楽隊の演奏に触れる機会がありましたが、ただ元気一杯なだけで技術は未熟で、粗雑で繊細さのない演奏だと感じ、自分はこんな音楽隊には入りたくないと思ったのをよく覚えています。

ところが、筑波大学に進学し、同大学吹奏楽団に入団した年、ある事件が起きました。楽団の先輩のアパートを訪ねて吹奏楽談義をしていたときに、先輩がこう言うのです。「山岡、おまえ、創価の出身やろ。創価関西てなんでこんなに上手いの?すごいで」と言って、その前年に創価学会関西吹奏楽団が全国大会一般の部で金賞を獲得した時の演奏録音(サンサーンス作曲交響曲第3番オルガン付きより)を聴かせてくれたのです。それは、吹奏楽のすべての管楽器の力強い響きが見事なハーモニーとなって原曲のパイプオルガンさながらの壮麗な響きとなってホールに充満している夢のような演奏でした。そこにはかつて持っていた創価学会音楽隊の粗雑さの印象は全くなく、磨き抜かれた美しい演奏でしたが、それと同時に聴く人の生命力を呼び覚ますような力強さにもあふれていました。その演奏の指揮をしていたのが、当時28歳の若き磯貝富治男先生でした。

磯貝先生は音楽大学を卒業してドイツ留学から帰国されて以降、友人の紹介で創価学会音楽隊の指導に関わるようになったそうです。磯貝先生は熱心な同世代の音楽隊員に触れながら、池田先生と関西創価学会の絆について学ぶようになったといいます。そして、池田先生が関西の無名の庶民のために体を張って戦ってこられた歴史を知ります。かねて人生の核となる師匠を持ちたいと念願していた磯貝先生は、池田先生を人生の師匠と定め、20代半ばにして創価学会に入会されます。

磯貝先生はある時、入会当時のことを回想されながら「入会前は音楽隊の幹部から“磯貝先生”と呼ばれてたんですけど、入会を決意したら“磯貝さん”になって、入会した後は“磯貝君”になりましたわ」と嬉しそうに大笑いされていました。

今にして思えば音楽隊の初期の方々は決して音楽の繊細さがわからなくて粗雑に演奏していたわけではなく、いい楽器を買うお金もない、きちんと奏法を教えてくれる先生もいない、仕事が多忙で十分に練習する時間も取れない、そんななかでも「絶対にうちらは負けへんのや」という気概で同志を鼓舞する思いで元気いっぱい演奏していたのです。中高時代にその思いの尊さが見えなかったのは私自身の未熟さでもありました。それと同時に、コンクールという対外的な勝負の場を通じてレベルアップを図り、勝利していくこともより多くの方に共感と賛同を得ていくための一つの実証の道であったことを、図らずも筑波大の先輩が証明してくれたのでした。

磯貝先生は、音楽隊がもともと持っていた力強さを大切にしながら、地域の文化行事などの対外的な場に出て行っても恥ずかしくない、皆さんに喜んでいただける演奏のできる楽団にしたい、また、創価の名前でコンクールに出る以上は池田先生の弟子として何としても勝たなくていけない、勝利する楽団にしたいと強く決意されます。そして、プロとして培ってきた練習法のノウハウをすべて導入し、楽団員の思いの強さを演奏技能の向上に直結させる道筋を作っていったのでした。

今でこそ創価学会音楽隊は東京の創価グロリア吹奏楽団をはじめ、全国のコンクールで好成績を挙げるまでに成長していますが、その原点を切り拓いたのは間違いなく磯貝先生でした。


1987年 全日本吹奏楽コンクール 金賞受賞 関西代表 創価学会関西吹奏楽団 / 指揮 磯貝富治男

A.リード「アルメニアンダンス パートⅠ」

 

(その2へつづく)