最近、学生時代の「読書ノート」が自宅の奥の倉庫から出てきました。40年近く経つのに表紙も中のページもきれいなまま。懐かしい筑波大学のノートです。

 

開いてみると、もうとうに忘れていたのですが、自分の読書を追体験できて面白い!字は汚いし、稚拙なメモではありますが、自分自身の思索の記録として貴重だと思い、捨てずに取っておくことにしました。教授から受けた講義のノートはほとんど捨ててしまったのですが。

 

見田宗介著『現代日本の精神構造』のノートです。

自分自身の精神構造を見つめるための手がかりとして読んだんだなあと思います。字が汚いのが恥ずかしいですが、さすがに自分の字なので私には読めます(笑)

 

別のページです。フッサール著『現象学の理念』のノートです。

大学3,4年の頃はかなり哲学にのめり込んでいたことを懐かしく思い起こします。フッサールは特におもしろくて、一時期、自分のペンネームを「福生流」(ふっさ・る)と名乗っていたこともあります。この頃、覚えたての中国語の簡体字を嬉しがって使っていました。例えば、「認識」を「认识」と書いています。画数が少ないから楽なんです。日本語をただ簡体字で書いただけの邪道ですが。

 

ただ、その後しばらくは、読書しながら思いついたことは本の余白にどんどん書き込むようになり(古本屋には売れません!)、いわゆる紙冊子の読書ノートは作らなくなっていました。

 

そこへ、最近、電子書籍 Kindle Oasis を愛用するようになって状況が変わりました。もちろん Kindle Oasis は多機能の優れもので、画面上で範囲指定してメモを文字列として入力し、残しておくこともできます。ただ、自分にとっては、手書きで書いたほうが速く書けて心にも残るし、あとでパッと一覧できることもメリットなので、学生時代の読書ノートが出てきたのを機に、電子書籍用の読書ノートを紙冊子のノートに書いていくことにしました。せっかく便利なデジタル機器を使いながらも、自分にはどうしてもアナログの部分が残ります。

 

今、カミュの『ペスト』の読書ノートを紙のノートに書いています。これが後で読後記を書くのにも役立ちます。やはりこの汚い字で殴り書きをするのが自分には合っているようです。