現代日本人は「役不足」の意味を間違って使う人が多いと言われています。例えば(1)は誤用だとされます。

 

 (1) このたび課長になりました。役不足ですが、精一杯務めますのでよろしくお願いいたします。

 

これを誤用だとする理由は、「役不足」の本来の意味は「その人の力量に比べて与えられた役目が軽すぎること」(大修館書店『明鏡国語辞典』)であるから、(1)は自分の力量を高く評価して役職を軽視する尊大な発話になってしまうので、ここでは「力不足」と言うのが正しい、ということになります。

 

ただ、(1)が「自分の力量からすれば物足りない役職ですが、精一杯務めますので・・・・」という尊大な発話である可能性も理論上は否定できません。その場合は話者の尊大さという人格的問題に違和感を覚えるだけで、ことばとしては誤用ではないということになります。

 

しかし、(1)を尊大な発話と解釈するよりは、謙遜のつもりで(間違って)「役不足」と言っているのだと解釈するほうがずっと自然です。リーチのポライトネスの原理のなかに謙遜の原則「自己への賞賛を最小限にせよ」、「自己への非難を最大限にせよ」があります。このポライトネスの原理は、コミュニケーションの基本原理である協調の原理よりも強く働くことが知られています。この原則が解釈者の意識に働いて、(1)を尊大な発話だとする解釈を打ち消してしまうのです。

 

自然言語は形式も意味も微妙な個人差が常にありますが、一定範囲の社会で大多数の人が使用する形式と意味が正用と見なされるようになります。国家や行政といった公的機関が正用の決定に介入することは通常はなく、ごく一部に限られます(常用漢字の決定など)。国語の教科書や辞書や文法書が編纂されるときはこうして自然に成立した正用を採用します。

 

自然に成立した言語の実態は時間とともに緩やかに変化していきますが、教科書、辞書、文法書はその言語の正用として固定されるため、時間とともに正書法と実態の乖離が生まれていきます。例えば、動詞「食べる」の可能形は正しくは「食べられる」ですが、話し言葉の実態としては9割以上が「食べれる」といういわゆる「ら抜き言葉」に変化しています。副詞「全然」は必ず否定辞(ない)と呼応すると教科書には書いてありますが、「全然おいしい」のように否定形と呼応しない用例も実態としては多く見られます。

 

ですから、多くの話者が(1)のような発話を繰り返し行っているうちに、「役不足」の意味が「与えられた役目に対して自分の力量が不十分であること」という新解釈へと変化していく可能性があります。昨年度に卒業したゼミ生が卒業論文で「役不足」の解釈の実態をアンケート調査したのですが、40代以下の若い世代だと新解釈のほうで理解している人が多数を占めるというデータが出ていました。(正確な数字は省略。論文が大学の研究室にあって確認できないため)

 

元の意味と新しい意味が正反対だと、コミュニケーション上の問題を引き起こしかねないはずです。それでも実態としては(1)を発話した人が不遜だと叱られたり、尊大な人という悪印象を与えたりということが起きないのは、両極のどちらの意味で用いてもポライトネスの原理を守っていると解釈されるからです。つまり、一つの言葉の意味を正反対の意味に変化させかねないほど、ポライトネスの原理は強く働くということです。

 

この新しい解釈が定着してそちらが大多数だと言えるだけの勢力となれば、それが正用として辞書に載る日がいつか来るかもしれません。もしそうなったとしたら、この言葉も「ポライトネスが慣習化した表現」、つまり配慮表現の一つということになります。今の時点ではあくまでも仮定ですが。