俵万智さんのベストセラー『生きる言葉』の読後記を昨年12月に、創価大学文学部の紀要『創価人間学論集』第21号に書評論文として投稿しました。昨年12月31日にその前半を先んじて本ブログに投稿させていただきました(読後記:俵万智著『生きる言葉』前半)。3月18日付けで本号が公刊され、創価大学中央図書館機関リポジトリにも登録されましたので、後半を投稿させていただきます。
(後半)
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3.コミュニケーションと文脈依存性
コミュニケーション研究と語用論の最大の特徴は意味解釈における「文脈依存性」である。語用論を「文脈の科学」と規定した研究者もいる(加藤 2016)。本書で俵万智さんは言葉の文脈依存性にたびたび視線を向けているが、それが端的に表れているのが第2章「ダイアローグとモノローグ」である。高校時代に演劇部に所属し、大学時代には劇作家つかこうへいの稽古場にも出入りしていたというほど演劇好きの俵万智さんが、本章では本職の短歌を此岸に置き、熱烈趣味の演劇を向こう岸に置いて、両者の言葉の積み上げ方を対比している。両者ともに愛好するがゆえに本章で披露する演劇エピソードも生き生きとしていて小気味よい。
章名の「ダイアローグとモノローグ」とは、演劇独特の対話による言葉の積み上げをダイアローグ、短歌において自身のなかで言葉を削っていく語りをモノローグとして対比したものだ。もっとも、万智さんは「短歌は日記より手紙に近い」として、短歌もまたコミュニケーションと捉えているのでその視点で演劇を見ると、演者と演者のダイアローグを常に客席から見つめる第三者の観客がいて、演劇舞台と観客とのコミュニケーションがそこには生まれている。言わばコミュニケーションの二重構造が成立している。演劇舞台は言葉を紡ぐ劇作家とそれを演じる演者の合作であり、それは常に観客の視線を意識して創作されている。広い意味では映画やテレビドラマなどもその構造は同じである。
ゆえに演劇における舞台上のコミュニケーションと人々の日常会話のコミュニケーションとはかなり異質なものとなる。我々語用論研究者は会話文のコーパスを研究データとして使用する。私は2009年から2018年にかけて科研費基盤研究(C)の2研究課題を通じて「映画ドラマシナリオコーパス」(Corpus of Film Drama Scenario, 以下、CFDS)を独自に開発した。ここには87件の映画とテレビドラマのシナリオのテキストデータを収録しており、会話文の表現形式パターンを調べるのに役立てている(但し、著作権を考慮して非公開)。いっぽう、国立国語研究所では2022年に「日本語日常会話コーパス」(Corpus of Everyday Japanese Conversation, 以下、CEJC)を公開した。こちらは年齢や性別の多様性に配慮したさまざまな被験者による日常会話の音声データを文字起こししたもので、577会話が集積されている。CFDSとCEJCを見比べると驚くほど異質なものとなっている。CFDSは第三者の視点を意識して作られているため、登場人物の会話の意味がクリアに理解できる。いっぽう、CEJCの会話データはそもそも文がきちんとした日本語の構造をなしていないことが多いうえに、そのやり取りの内容も観察者にはほぼほぼ意味不明であることが多い。ソシュールの言葉を借りて言えば、CFDSには日本語の正書法として整理されたラング(langue)が収められ、CEJCにはありのままの言語活動のパロール(parole)が収められているとも言えよう(Saussure 1916)。
本章で興味深いのは、俵万智さんは脚本家が規範的なラングを用いて制作するはずの演劇の言葉を愛好しながらも、日常会話の自然なダイアローグに出現するパロールのほうに視線を向けている点である。高校生のときに衝撃を受けたという別役実の戯曲にこんな会話があったという(下線は本稿筆者)。
「いや、そうじゃないよ、ちょっと何してきただけじゃないか」
「それはでも、あれじゃないか……」
「だから今、私も、そっちに何するあれがあったけど、やめて相談に乗ってやってるところじゃないか」(p.45)
戯曲「ポンコツ車と五人の紳士」の一シーンである。これを見る限り、CFDSには見られないCEJC特有の会話データかと見まがうような解釈不能の会話である。下線部の「何」は不定代名詞、「あれ」は指示代名詞のように見えるが、これらは山岡(2021)で述べたところの配慮代名詞に相当すると考えられる。相手にとって心理的負担となるような内容を明言することを避けて、「何」や「あれ」で代用するというものである。この配慮代名詞は極めて文脈依存的で、通常は当事者にしか解釈できない。このような不完全な発話のやり取りにもかかわらずコミュニケーションがうまく成立するメカニズムを理論化したものに関連性理論がある(Sperber & Wilson 1986)。当該発話に対する解釈可能性が複数あったとしてもそのうち最も文脈効果が高い解釈、言い換えれば処理労力が少ない解釈を「関連性が高い」解釈として採用する。人はそのような判断を会話中に瞬時に行っているというのである。言い換えれば、当該会話の文脈を共有していない傍観者にとっては処理労力が多くなるため「関連性が高い」解釈が得られず、ちんぷんかんぷんとなる。別役実は現実社会のリアリティを描くために敢えて観客を処理労力の多い傍観者の位置に置き、規範的なラングではなく、不安や空虚さを増幅させるありのままのパロールの不条理さを舞台上に現出してみせたのである。そして、この別役実の戯曲に触れて、「教科書みたいな日本語だけで書かれた戯曲が、なんだか嘘っぽく見えた」(p.45)とする万智さんは、そこから言葉というものの豊かな文脈依存性を捉えて短歌の創作に活かしている。口語での短歌創作にためらいがないのも規範性からの脱却をこの戯曲から学んだのだろう。
俵万智さんが言葉の文脈依存性に注目する興味深いエピソードが本章後半にも記されている。つかこうへいの稽古場通いから30年を経た2024年、今度は劇作家野田秀樹による「カラマーゾフの兄弟」の翻案「正三角関係」の稽古場に通ったという。そのなかで演劇の一つのダイアローグに俵万智さんは注目している(pp.54-55)。ロシアの領事館で文化遺産のグルジアの壺を見せてもらった威蕃が誤って壺を落として割ってしまう。一同が青ざめた瞬間、威蕃は「形あるものはみな壊れる」と言う。確かにそれは不変の真実だ。これに対してウワサスキー夫人は「それは、落として壊したあなたが使う言葉じゃないわ」と返す。この文脈にはあなたの発話はふさわしくない、自らの犯した罪から目を逸らそうとするかのような不適切な発話だとの指摘だ。言葉は誰がどの文脈で発話するかによって意味が変わるという事実を見せているのだ。そして、これは作品終盤の文脈効果を高める伏線の働きもしている。長崎に原爆が投下されるラストシーンだ。ここで、原爆を落としたアメリカの理屈は「あれは戦争を終わらせるために仕方のないこと」だった。これに対してウワサスキー夫人は「だから落としたあんたが使う言葉じゃないってえの」と返す。野田秀樹からアメリカへの「長崎に原爆を落とした米軍が言うな」という渾身のツッコミだった。壺を割ったエピソードによって文脈効果を高めておいたことを、ここで絶妙に伏線回収したのだ。
巻末の「おわりに」にも類似のエピソードが紹介されている。万智さんの父が病床で余命わずかのとき、父が大事にしていた囲碁の本を母が処分してしまったことを、父を諦めた遺品整理のようだと言って母に怒ってしまったという。そのことを息子たくみんに話すと、「ばあばは何かしらじいじに関わることをしたかったのでは」と。改めて母に聞いてみるとたしかに母は夫の本を整理しながら昔を回想して楽しんでいたという。母の気持ちが汲み取れなかったことを落ち込む万智さんはたくみんに「オレは距離があるから、客観的に見られるだけ。エライのは、実際そばにいるオカンだよ」(p.230)と慰められる。息子のこの言葉が今でも支えになっているという万智さんだが、もし自分が言ったらどうなるか。「オマエは距離があるから、客観的に見られるだけ。エライのは、実際そばにいる私だよ」―これでは台無しだと。ここでふとあのセリフ「あんたが使う言葉じゃないってえの」を想起する。万智さんもまた、第2章で高めた文脈効果を巻末で伏線回収しているのである。
コミュニケーションの文脈依存性は本書全体を貫くテーマでもある。第10章「そこに「心」の種はあるか」では、言語学者・川添愛氏との対談を振り返り、川添氏が「意味」と「意図」を区別していたことに言及している。語用論の基礎理論を確立した英国の言語学者リーチは、辞書に記載されているような言葉の文字通りの意味を「意義」(sense)、発話者間の人間関係、共有知識、社会通念、対人配慮などの文脈に基づいて解釈される発話上の意味を「効力」(force)として区別すべきであることを示した(Leech 1983)。川添氏の言う「意味」と「意図」は、リーチの言う「意義」と「効力」をわかりやすく言い換えたものである。万智さんはこれを受けて「表面的な意味だけでなく、背景にある意図を汲み取れるのが人間のコミュニケーションだ」(p.203)と述べている。表面的な意味(意義)を包み込んでいる文脈情報に敏感に触れて意図(効力)を適切に汲み取っていくのが人間らしいコミュニケーションの在り方だと主張しているのである。
4.ポライトネスとぼかし表現
コミュニケーションの文脈依存性を論じるうえで、共有知識や社会通念などと並んで考慮すべき主要な社会的文脈の一つに対人配慮がある。マルハラという耳新しい言葉から始まる第5章「言い切りは優しくないのか」はこの対人配慮に注目した章だ。現代の若者はLINEでの文字会話には句読点をつけないらしく、中高年が「連絡をください。」「わかりました。」のように文末に句点(。)をつけるのは断定的に言い切っているようで威圧的に感じられるのだという。これが彼らの言うマルハラスメントだ。万智さんはXに短歌「優しさにひとつ気がつく ×でなく○で必ず終わる日本語」を投稿して、若者のマルハラ呼びへのささやかな抵抗を試みたというのが微笑ましい。
このマルハラを導入として、万智さんは日本語には断定的な言い方を避けたがる傾向があることを指摘している。例えば、「映画とか見て」の「とか」。本来は「AとかBとか」と列挙する際に用いる取り立て助詞だが、現代の辞書には第2の用法として「断定を避け、あいまいにするために語の後に付ける」とあり、補説として「1990年代前半から若者の間で使われ、すぐに大人にも広まった。多用する話し方を『とか弁』ともいう」と記載されている(大辞泉)。「とか」については拙稿にて配慮表現の一種「ぼかし表現」の語彙として言及したことがある(山岡他 2010: 207)。友達を誘うときに「ねえ、映画とか見に行かない?」と言えば、いちおう映画を提案してはいるが相手が芝居とか音楽とか別の物を希望するならそちらに合わせてもいいといった含みをもった緩い提案であることを表している。「こちら、ピザトーストになります」(p.112)や「おれ的にはけっこうやばいかな、みたいな」(山岡他 2010: 207)のそれぞれ下線部もぼかし表現である。この種のぼかし表現を含む配慮表現は、対人コミュニケーションにおけるポライトネス(politeness)の機能が慣習化したものと説明することができる(山岡編 2019)。
ポライトネスとは、人がコミュニケーションにおいて対人関係に配慮して行う言語行動を概念化したものであり、特に人類学者ブラウンと言語学者レヴィンソンの合作によるポライトネス理論がよく知られている(Brown & Levinson 1987, 以下、著者名をB&Lとする)。B&Lによると、人は誰でも対人関係において他者に好かれたい欲求と、他者に自己の領域を侵されたくない欲求を持っており、これらの欲求をフェイス(face)と呼ぶ。そして、コミュニケーションにおいては他者のフェイスを脅かす行為(face threatening act, 以下、FTA)をなるべく行わないように心がけるが、やむを得ずFTAを行う場合にその度合いを少しでも緩和するように補償行為としてポライトネスの言語行動を行う。B&Lはポライトネスの配慮による行為選択は極めて文脈依存的で、相手との上下関係、親疎関係や、当該発話行為が相手にかける負荷の度合いなどを総合的に計算して、その文脈に応じた言語行動を選択すると考えた。そして、この行為選択を体系化したものをポライトネス・ストラテジー(politeness strategy)と呼ぶが、その具体的な言語方略の一つに「ヘッジを用いよ」がある(B&L 1987: 145)。ヘッジ(hedge)は日本語ではぼかし表現と訳される。B&Lは “A swing is sort of a toy.”(ブランコは遊具の一種だ)や “I rather think it’s hopeless.”(むしろ望み薄だと思う)の下線部を英文のヘッジの例として挙げている。ヘッジは断定的に言うことで生じ得る対人関係のリスクを軽減する機能を持ち、どの言語にも広く見られる。金融分野におけるリスクヘッジはよく知られているが、それと同じく言語におけるリスクヘッジということだ。日本語の「そこどいたほうがいいかも」では、忠告のFTAを下線部のヘッジが緩和している。中国語でも「你让开那里可能比较好.」、英語でも “It might be better to leave there.” のようにほぼ同機能のヘッジが用いられる通言語的現象だ(山岡他編 2025: 16) 。本章で万智さんが言う「曖昧表現」もこのヘッジに類するものである。「メニューのほう、おさげします」(p.113)の「のほう」も対象物が一つしかないにもかかわらず、選択肢の一つであるかのように表現してぼかす機能を持ったヘッジだ。
興味深いのは万智さんが「界隈」を挙げている点だ(pp.114-117)。本来は地名に添える接尾語で、「渋谷区」なら対象地域が明確な行政区だが、「渋谷界隈」だと渋谷駅のあたり一帯を漠然と指していて境界線は曖昧だ。つまり「界隈」は地名の対象範囲をぼかす名詞のヘッジということになる。今の若者はこの曖昧さを利用して「アニメ界隈」、「自然界隈」のようにあるジャンルに関心を持つ人々のコミュニティを漠然と指すのに用いる。「アニメクラブ」や「自然愛好会」の明確な構成員ではない、ふわっとした感じが若者には好まれるという。これも該当者を特定することを避けたある種の対人配慮によるものであろう。
先述のようにヘッジは普遍的な言語現象だが、万智さんは日本語では若者がヘッジを多用する現象に注目している。若者言葉はぞんざいで乱暴と思われがちだが実際は他者への気遣いであるポライトネスの言語行動を中高年よりも先取りしているのだ。いわゆる流行語は時限的なものが多く、消長が激しいが、ポライトネスに動機づけられた表現は慣習化して配慮表現として定着する傾向にある。万智さんが本章で紹介した若者特有のヘッジもまた定着していく可能性が高い。配慮表現の慣習化は10年から20年の単位でゆっくりと進行するものだが、慣習化が始まる初期状態は規範性の意識が比較的低い若者に現われやすく、その表現の便利さが浸透すると次第に中高年にも拡がっていく。例えば、「君のお料理、全然行けるよ」のような〈副詞「全然」+肯定形〉は2000年前後から非規範的な若者言葉として始まったが、現在既に話し言葉では年配者のあいだでも定着しつつある。他に若者言葉には、配慮表現の一種である共感表現も「わかる」「それな」「だよねー」「あーね」など語彙が豊富である。相手への共感を示すのも立派なポライトネスの言語行動なのだ。
本章のコラム「流行語の難しさ」には万智さんが2016年に流行語大賞の選考委員を務めた際のエピソードが記されている。こちらは消長が激しいほうの流行語である。「保育園落ちた、日本死ね‼」がトップ10に入った際、選考委員だった万智さんのツイッターが炎上した。「歌人のあなたが何でこんなひどい言葉を選んだのか」という批判が殺到したのだ。しかし、流行語大賞は決して「美しい言葉大賞」ではないし、「ゲス不倫」や「メタボリックシンドローム」のような不愉快な言葉だって選ばれている。その批判を万智さんに向けるのは間違っているとブログに書いて、万智さんのSNSにもコメントを送ったところ、「心に染みました」と丁寧なレスポンスをくださった。今回のコラムで、当時の万智さんがどれほど心を痛めたかが改めて伝わってきた。相手の気持ちを考えずに批判コメントを平気で送るSNSはポライトネスを顧みないFTAの巣窟である。たとえ美しいほめ言葉でも文脈次第では相手の心情を傷つける皮肉やほめ殺しにもなれば、時にはハラスメントになる可能性さえある。言葉そのものの美醜を問題にするより、相手の心情に配慮したコミュニケーションができているかどうかこそが重要ではないか。そのことを再確認したコラムだった。
5.私的言語としての詩と短歌
2024年11月13日、万智さんと親交のあった詩人・谷川俊太郎氏が鬼籍に入った。訃報に接した万智さんはすぐに追悼文「言葉を疑う人」を記し、文学誌に寄稿した。そして巻末に当たる最終章を第11章「言葉は疑うに値する」として、この追悼文で本書を終えている。組曲『言葉を生きる』の最終楽章フィナーレは深遠なレクイエムなのである。
この追悼文によると、初対面のとき谷川氏は万智さんに「あなたは現代詩の敵です」と言ったという。定型を手放すのが現代詩なら定型を信じるのが短歌だとする対比はよくわかるが、それを「敵」と表現するところに谷川氏が常に言葉と格闘してきた人生が滲み出ている。谷川氏は詩集『ベージュ』で「言葉では詩は捕まえられない」、「詩は言葉ではない」、「仮に寂しさと呼ばれているものは、言語より出自がはるかに古いから、基本的に命名不可能なんだ」(p.225)と述べている。万智さんが対談で対面したときにそのことをぶつけてみると谷川氏は、「僕は詩を書き始めたときから詩を疑っていたし、言葉も疑っていたんです」と答えたという(pp.225-226, 谷川・俵 2022: 12)。
私なりにパラフレーズしてみたが、こういうことだろうか。自分のなかのある感情は言葉と無関係に存在する。まだ言葉を覚える以前の幼子だった自分がたまたま母の姿が見えなくなった瞬間に大泣きしたときにも名も無きその感情はあった。それを「寂しい」と言うと後から覚えた。小学時代に仲良しのお友達が転校していったときに感じた思い。それも言葉にすれば「寂しい」だった。自分のなかに湧き起こる感情を言葉にして伝えようとしても、あのときの「寂しい」とこのときの「寂しい」は全然違うのに、一つの「寂しい」という言葉しかない。本当の自分の思いを言葉で伝えることはできるのだろうか。逆に他者が発した「寂しい」という言葉からその人の心を知ることはできるだろうか。人は一生の間、自分の心のなかしか見られず、人の心は言葉を通して見るしかない。しかし言葉を通して見たものは所詮言葉であって心そのものは見えない。人間は嘘をつくこともできる。全然寂しくないときに「寂しい」と言うこともできる。誰かを引き留める意図を持って「寂しい」と言うこともある。大学から卒業生を送り出すときに彼らへのポジティブポライトネスとして「寂しい」と言うこともある。あまりにも曖昧で不確実な言葉という代物を人は対人関係の文脈を通して精一杯読み取りあって生きているのだ。万智さんの表現を借りれば、「言葉は、この世界のモノや人の心を捕らえるのに完璧ではない。完璧ではないけれど、なんとか私たちは日々言葉を用いて生きている」(p.223)のだ。そんな言葉を独自のやり方で積み重ねることで、谷川氏は自身の心を伝える詩の創作と格闘してきたのだ。この天才的な詩人の創作を万智さんは追悼文でこう称える。
そもそも言葉と世界とは、一対一で対応していないし、絶望的にズレがある。そのことを呑気に忘れて、私たちは何かを書いたつもりになっている。いや、呑気に忘れないと怖くて言葉なんかつかえない。ともかくズレはズレとして、いかにズレを小さくすることがポイントだとしたら、谷川俊太郎ほど高い精度で言葉を扱える人は稀有だろう。一番無自覚でも許される人が、誰よりも自覚的だということに胸を打たれた。逆に言えば、とことん疑っているからこそ生まれる精度なのだろう。(p.226)
谷川俊太郎氏の言語観は言語哲学者ウィトゲンシュタインの「私的言語」(private language)を想起させる。ウィトゲンシュタインは「歯痛」を例にとって述べる。「歯が痛い」という経験は如何にしても他者と共有することはできない。「歯が痛い」という言葉を伝えることはできるが、それがどの程度のものかもわからないし、本当かどうかもわからない。食欲がないのを「歯が痛い」という言葉でごまかしているのかもしれない。しかし私たちは「歯が痛い」と発話するときには相手との間で何かをなそうとする意図を持っており、発話者がおかれている状況などをもとにそれを解釈していく(Wittgenstein 1968, 大森訳 1975: 318-319)。この「歯が痛い」を「寂しい」に置き換えれば上述のパラフレーズとなる。
このように人間の言語は私的経験に基づく私的言語であって、本来、他者には解釈し得ないものだが、発話者間の駆け引きによって意図を読み取りあい、コミュニケーションを実行していく。このように私的言語を経験から切り離して公的に解釈していくプロセスを、ウィトゲンシュタインはゲームに喩えて言語ゲーム(language-game, 独Sprachspiel)と呼んだ。ゲームは目的に応じたルールを会話参与者が共有することによって成立し、進行する。家族の会話、異性への求愛、企業間の商談交渉、学術研究の学会発表等々、それぞれが固有のルールを持つ別個の言語ゲームなのだ。そして、そのルールとは言語コミュニケーションの文脈依存性をウィトゲンシュタイン流に喩えたものだ。
詩人・谷川俊太郎は定型に囚われることなく、疑って疑って選び抜いた言葉を連ねることでその思いを伝える詩という言語ゲームの達人だ。そして、歌人・俵万智さんもまた、定型を信じつつ繊細に選び抜いた言葉を三十一文字のリズムにはめていくことで思いを伝える短歌という言語ゲームの名選手なのだ。
短歌それ自体も言語ゲームだが、互いの詠んだ短歌を披露しあう「歌会」もまた、高次の言語ゲームであることが第8章「言葉がどう伝わるかを目撃するとき」で語られている。歌会の参加者は各自が一首ずつ短歌を提出する。それを無記名で並べて参加者が互いの歌について感想や意見を述べあう。すると、自作の歌に対する受け止め方が読者によって違ったり、思いがけない深読みをされたりすることもあるという。短歌を披露しあい、感想を語りあう行為はまさに、人と人とが私的言語をすり合わせて一歩深いコミュニケーションを取る言語ゲームそのものなのだ。
万智さんは2018年から歌舞伎町のホストたちとの歌会をやっている。ある日の歌会で「「ごめんね」と泣かせて俺は何様だ誰の一位に俺はなるんだ」との歌に万智さんは心を打たれたという(p.172)。次第にその熱量は高まり、震災での被災を初めて言葉にした子、幼児期の性的虐待を再現した子等々、その赤裸々な私的経験の披露を通して彼らは互いの人生を共有しあう得難い体験をしている。そのなかから角川短歌賞の予選を通過して2024年にはとうとう歌集を出版したメンバーもいるという。ホストたちとの歌会の歌集は既に2冊を出版し(俵万智他編 2020a, b)、さらにアイドル歌会の公式歌集も出している(俵他編 2022)。
万智さんは短歌を通して多くの人々、多様な人々と心の通うコミュニケーションを取り、人脈を拡げてきた。歌人という枠を超えて社会に影響を与えてきた、創作家にして文化人である俵万智さんに改めて敬意を表してこの読後記を終えることにしたい。
参考文献
加藤重広(2016)「文脈の科学としての語用論―演繹的文脈と線条性―」『語用論研究』第18号、日本語用論学会、78-101
谷川俊太郎(2020)『ベージュ』新潮社
谷川俊太郎・俵万智(2022)『言葉の還る場所で―谷川俊太郎・俵万智対談集―』春陽堂書店
俵万智(2010)『俵万智の子育て歌集 たんぽぽの日々』小学館
俵万智(2017)『子育て短歌ダイアリー ありがとうのかんづめ』小学館
俵万智他編(2020a)『ホスト万葉集』講談社
俵万智他編(2020b)『ホスト万葉集巻の2』講談社
俵万智他編(2022)『アイドル歌会公式歌集Ⅰ』講談社
俵万智(2025)「言葉を疑う人」『文學界』2025年1月号、文藝春秋
永井均(1995)『ウィトゲンシュタイン入門』ちくま新書
野田秀樹(2024)「正三角関係」『新潮』2024年9月号、新潮社
橋爪大三郎(1985)『言語ゲームと社会理論』勁草書房
別役実(1971)「ポンコツ車と五人の紳士」『戯曲デジタルアーカイブ』一般社団法人日本劇作家協会(https://playtextdigitalarchive.com/drama/detail/865)
山岡政紀編(2019)『日本語配慮表現の原理と諸相』くろしお出版
山岡政紀(2021)「配慮代名詞「何」を用いた配慮表現―前置きの「~のも何ですが」を中心に」『国語学研究』第60集、東北大学大学院文学研究科、1-12
山岡政紀・牧原功・小野正樹(2010)『コミュニケーションと配慮表現』明治書院
山岡政紀・西田光一・李奇楠編(2025)『世界の配慮表現』ひつじ書房
Brown, P. and S. Levinson (1987) Politeness: Some universals in language usage, Cambridge University Press. (邦訳:ブラウン、レヴィンソン著、田中典子監訳(2011)『ポライトネス 言語使用における、ある普遍現象』研究社)
Leech, G. (1983) Principles of Pragmatics, Longman. (邦訳:リーチ著、池上嘉彦・河上誓作訳 (1987) 『語用論』紀伊国屋書店)
Saussure, Ferdinand de(1916)Cours de linguistique générale, Paris: Payot.(邦訳:ソシュール著、小林英夫訳(1972)『一般言語学講義』岩波書店)
Sperber, D. and D. Wilson (1986) Relevance: Communication and Cognition, Blackwell.
Sperber, D. and D. Wilson (1995) Relevance: Communication and Cognition, Second Edition, Blackwell. (邦訳:スペルベル、ウィルソン著、内田聖二他訳(2000)『関連性理論』第2版 研究社出版)
Wittgenstein, Ludwig (1968) “Note for Lectures on “Private Experience” and “Sense Data””, Philosophical Review 77: 271-320 (邦訳:大森荘蔵訳(1975)『ウィトゲンシュタイン全集』第6巻、「「個人的経験」および「感覚与件」」、大修館書店、299-390)
(『創価人間学論集』第21号、2026.3.18)


